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2008年1月25日 (金)

青い瞳に伝えたかったこと  彼女の父親

前回の続き。

さて、オレゴンの高校の話しの続きをする。全寮制である上に、独自のカリキュラムを持つ学校で、世界中から集まった留学生とアメリカ人とで半分ずつくらい。学生たちはユニークというか、変な連中ばかりなのだが、先生たちも当然のごとく、少しばかり変わっている個性派がそろっていた。

学生はみな、学校に住んでいるようなものなので、自然と先生との関係は深くなる。たまに学校の外に連れていってもらったりして、一時だけ刑務所生活から抜け出すことができるのだった。りお太郎にも、スコットという仲の良い先生がいて、彼のお気に入りのモンゴル料理屋によく一緒に行った。しかし、先生たちが優しくて、親しみやすいフレンドリーな人たちばかりではなかった。小心者の留学生には、とても話しかける勇気さえ出ないような、怖い先生もいたのだ。顔中ひげもじゃのうえ、プロレスラーのような体格で、泥だらけの作業着をつねに身にまとい、通称“ビッグ・ベアー”と呼ばれる用務員兼・修理屋のような先生が、まさにそういった人間のひとりだった。そしてこの人物こそ、前回の項に登場した青い瞳の子のファザー、生みの親なのだった。

りお太郎には信じられなかった。可愛い女の子の父親が、鬼のような顔の似ても似つかぬケダモノという設定は、マンガの中だけでしか起こりえないのだと思っていた。しかし、アメリカのようなクレイジーな国には、そんなありえない話がごく普通にありえたりするのである。当然、ビッグ・ベアーは学生全員、体の大きなアメリカ人学生たちからも恐れられていた。彼の命令には、逆らうことなど微塵も許されない、まるで神の声とでも言える絶対的なものがあった。まさに無敵の男であり、学生に対しては笑顔など絶対に見せることがない怪物なのだ。だけど、たったひとりの娘の前では、そのオーラはすべて消え失せる。なんと、あの熊の顔に笑みがこぼれたりしている。信じられんことに、熊の体の半分くらいしかないような小さい娘から、“あっち行って”とか“邪魔しないで”なんて言われたりして、なすすべもなく肩を落として退散している姿さえも見られるのだった。そんなときだけ、彼に親近感がわいた。

この学校では学生全員に役割が与えられる。例えば食堂での皿洗い、教室の清掃、花壇の手入れなどがあり、日替わり、あるいは週替わりで、学校内のいろんな仕事を毎日行わなければならない。運が悪いことに、りお太郎には、みんなが敬遠したくなるような役割が頻繁にまわってきた。誰もが好まない仕事、その代表的なのが、ビッグ・ベアーから命じられ、彼の手足となって働く仕事である。具体的に言うと、学校のフェンスの修理、古い建物の改修、トラクターなどのメンテナンスなどで、いわゆる力仕事が多い。学校の仕事の時間になると、担当教官のもとに集合させられる。ビッグ・ベアーの前に一列に立たされ、名簿を見ながら点呼をとられるのだが、この時ほど自分が刑務所の囚人だと思ってしまう瞬間はないであろう。

RYUTAROという名前をリストに見ながら、「リ ユータ・・・ 何だ、これは!」 アメリカの熊には日本人の名前を発音することはできなかった。りお太郎は、「発音しにくい名前なので、リオと呼んでください。」とか、そういう時に言うようにしてたが、ビッグ・ベアーの前では怖気ついているから、何も言えなかった。それ以来、彼には名前を呼ばれずに、「ユー」か「ヘェイ」、といった感じで呼んで頂いた。そして名簿を読みあげる際は、りお太郎がいると、またお前か、という顔で一瞥され、すぐ次の人の名前が呼ばれるようになってしまう。

もう一度言っておくが、あの優しい、青い瞳の子の父親なのである。悲しいことだが、それが現実だった。りお太郎はベアー教官の前では懸命に働いた。どんな大変な仕事でも嫌な顔ひとつしなかった・・・と思う。業務時間が過ぎていても平気な顔をして働いた。まぁ、不満を言うような勇気はなかった。ビッグ・ベアーはりお太郎に腕力がなくて、手際が悪い上に、物覚えが悪いということも見破っていたが、それでも彼の元に頻繁にあらわれる日本人をしぶしぶ使っていたようだった。用務員の彼には、自分と一緒に働く学生を選ぶという権力はなかったのである。そこには、何かしらの縁があったのかもしれない。誰の目にも触れることがないようなオレゴンの田舎の山ん中に、りお太郎と熊が作った木の柵が、今も建っているだろう。

大きな障害をのりこえ、りお太郎が青い瞳の子とふたりっきりになったりして、さらに心をひらいていく。そのストーリーは、また次回に。

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2008年1月24日 (木)

青い瞳に、話しかける・・・ことができない。

今日も山に登ってきたのだが、寒かったせいか結構疲れた。毎日、体を動かしているわけではないので、自分が思っている以上に体の衰えが進行している。年齢を重ね、ずい分と弱くなってしまった。でも、体力を維持するために、何ができるのだろう。忙しいせいもあるが、毎朝ジョギングをするようなエネルギーは体のどこからもひねり出せない。

17、18歳の時、りお太郎は毎朝走っていた。2年くらいの間、4kmのコースをずっと走り続けた。おかげで、当時は底なしの体力を誇り、大学に入ってからは登山ばかりしていたが、ホントに疲れ知らずだった。今とは大違いである。でもこの時、一生懸命になって飽きもせずに走っていられたのには理由があった。

まずは、りお太郎が留学していた高校のことを説明しなくてはならない。アメリカ・オレゴン州の田舎町、シェリダンの町外れ、小高い山の上に全寮制の高校がポツンと立っていた。フルーツ園や小麦畑が広がるウィラメット・バレーを見下ろす最高のロケーションにあり、アメリカらしい風景に囲まれ、比較的過ごしやすい気候にも恵まれている。そんな学校なのだが、そこは通称“プリズン”=刑務所と呼ばれていた。

山の上にある学校と、併設された寮はシェリダンの町からはかなり遠い。車ならば10分くらいだが、歩くとなれば大変である。片道3時間はかかるだろう。その距離はともかく、規則では無断で山を降り、町に行くことは許されていなかった。学生は毎日授業を受け、午後は自習時間で勉強に励み、夜は何かしら学校の仕事を割りあてられることになっていた。寮の門限、消灯時間も決まっていて、自由な時間は限られている。留学生にとって、陸の孤島のような学校から脱走することなどはありえない。そこはまさに“プリズン”のような学校。

さて、りお太郎は決して従順で、出来の良い学生ではなかったが、厳しい校則に反発するわけでもなく、ただ毎日エネルギーを持て余しながら暮らしていた。なかなか上達しない英会話と、異国にいる寂しさや、アメリカのまずいメシのせいで、つねにストレスが溜まっているような状態だった。フリーの時間にバスケットボールとかで汗を流していたが、それでも足りなかったのか、ある日突然、ジョギングでもしてみようかと思い立ったのである。寮を出て、体育館やグランドの横を駆け抜けて、先生たちの住む住宅地を過ぎ、山の麓にある学校の校門まで行き、同じ道を帰ってくるコースにした。復路は上り坂なので、かなりしんどい。強い意志があったわけではないので、すぐにやめてしまってもおかしくはなかった。

りお太郎が朝、走っていることに何人か気づき声をかけてくれたが、別に大したことはない、学校でほとんど目立たないりお太郎が注目されるようなことはなかった。しかし、その姿を毎日のように気にとめて、ちゃんと見ていてくれた人が、たったひとりだけいたのである。それは、先生たちの家のひとつ、ちょうどランニングコースの道がわに面した部屋に住んでいた、アメリカ人の女の子だった。彼女はおとなしい方で、背は低く、細身だが、青い大きな瞳が印象的な子だ。

りお太郎がジョギングを始めてしばらく経ったある日のこと、彼女から声をかけられたのだが、いきなり“22分だったよ”とか言われ、りお太郎には何のことやらさっぱり分からなかった。拙い英語の能力しかない為、すぐに理解できなかったのかもしれないが、彼女はジョギングのタイムを教えてくれたのである。それは、その子の部屋の窓の下を通過し、また戻ってくるまでの所要時間なのだった。彼女は、僕が走りに行き、帰ってくるまで見届けてくれていた。その事実が、紛れもない事実だと気づいたとき、りお太郎は驚いたが、この上ないくらいの喜びを感じたのだった。

それから先、りお太郎がアホみたく、毎日毎日同じコースを走るようになったことは言うまでもない。雨の日も、雪が降った日さえ、目は冴えわたり、ベッドから出ることを躊躇することはなかった。そして、たまに彼女から、“よく走るね”とか“前より早くなったじゃない”などと言われて有頂天になった。さて、この先の進展はいかに・・・ 次回に続く

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