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2008年3月25日 (火)

マウント・レモンはクライマーズ ヘヴィン(天国)

先日、群馬のウォールストリートというクライミングジムに行った。ボルダリングの大会に参加するためである。当然、学生たちが大会に出場しているわけだが、今回は無理して自分も出場したのだった。いちおう大会の2、3日前に少しばかり練習したが、半年くらいもクライミングをやっていなかった。りお太郎としては、大会を楽しむことができて、なおかつ自分が納得できるくらい登れたら良いのになぁと安易に考えていたが、自分が参加した“ミドルクラス”というカテゴリーの中で最下位のビリッけつという結果だった。ヒーヒー言いながらほとんど登れず、まったく満足できずに終わってしまったことは残念だった。

フリークライミングを初めて体験したのは、19歳のときだった。それまでにヨセミテ国立公園やグランド・ティートン、ダイアモンドフェース(ロングスピーク)といった、アメリカを代表するようなクライミングエリアをすでに訪れていたが、いつもひとりきりだったことと、クライミングはオッカナソウだったので、トライできずにいた。

2その後、大学でアウトドアを専攻したことで、クライミングが授業科目として入り、本格的にフリークライミングというスポーツに触れる機会を持つことができた。大学入学したばかりの頃、すぐに長期の実習があり、いきなり1週間の合宿形式でクライミングをやることになったのである。そして、そのときに訪れた場所が、アリゾナ州の南部にある“マウント・レモン”だった。

1サンタ・カタリーナ山脈に属する3,000mにも満たない山のひとつだが、りお太郎が初めてマウント・レモンを目にした時の驚きは、ハンパないものだった。行く前から、マウント・レモンがゴツゴツした岩山だということは容易に想像できた。しかし、最初に麓の町からその山を見上げたときに驚いたのは、それがまるで針の山のようで、よ~く見ると何千という岩塔が立ち並んでいたからだった。しかし、その針の山は地獄でお目にかかるような暗さや陰湿さはなく、青い空と緑のサボテンがよく似合い、黄色あるいはオレンジ色に近いような岩が美しい、素晴らしい山なのだった。

31週間でみっちりと、トップロープクライミングから、リード、そして3ピッチくらいのマルチピッチまでこなし、クライミングの経験値を幅広く積んでいくという、大ざっぱなアメリカ的な考えのもとで、少しばかり無茶ともいえる内容の実習だった。だけど、このエリアは初心者にとって最高の環境で、岩はいくらでもあり、ルートはどんなグレードでも揃っている。仲間たちと一緒になって岩と戯れながら、広大なエリアで誰に気兼ねするもことなく無我夢中になってクライミングに取り組むことができた。

5砂漠地方のアリゾナにおいて、マウント・レモンくらいの標高はカラッとしてちょうど過ごしやすい気候になる。日中はTシャツ1枚でも暑いくらいだが、日陰に入ると涼しかった。夜は肌寒くなるから、早めに寝てしまうのだが、毎朝目を覚ますと真っ青の空が広がるのである。どんなに疲れていても、今日もいっちょうやったるか!と元気が沸いてくるのは、日本のようにジメジメしていないからだろうか?昼食などで休憩するときは、一日中太陽に照らされて暖かくなった岩の上で寝そべって、サンドイッチを頬張っていた。眺めのすこぶる良い岩の上で、まわりを見渡すとホントに岩だらけなのだった。クライミングができるルートは無限にあるように思えた。俺だったら、多分一生かかっても登りつくせないじゃないか?スゲーなぁ・・・

4たしか、マウント・レモンで登ったルートで一番難しかったのは、5.10bのリードだったと思う。何回もチャレンジした末に完登したのだが、現在の自分自身のオンサイト能力は、上手くいっても5.10bくらいではないだろうか?あれから10年以上経っているのに、クライミングテクニックはまったく伸びていない。逆に、持久力がグンと落ちてしまっているに違いない。あぁ情けないな~

マウント・レモンの麓には、アリゾナ州第2の都市ツーソンがある。メキシコに近いこともあり、ラテン系の雰囲気の町だが、砂漠のオアシスみたいなイメージで、とても良い印象がある。特にりお太郎のお気に入りは、ツーソンのアウトドアショップ“Summit Hut”というお店。 http://www.summithut.com/ 通販で日本にも発送してくれるようだから、円高の今ならお買い得があるかも。

6ツーソンの町をはさんで、マウント・レモンとは反対側に、りお太郎が気になっている山がある。アリゾナ州で最も頂上に立つのが難しいと言われている山だ。実は、次回のI-nacアメリカ研修では、この山の登頂を目指している。かなりマニアックで、クライマー以外にはほとんど知られていない。なぜ登るのが難しいかというと、頂上に達するためにはクライミングの技術が必要になるからだ。今ここで紹介して、広く認知されてほしくないので、名前は“ピークB”としておく。ピークBはネイティブアメリカンの聖なる山でもあり、山の姿、歴史、ルートなど、すべてにおいて濃い内容が揃っている魅力的な山なのだ。とりあえず写真だけ載せておくが、いずれブログで、もう少し詳しく紹介しよう。

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2008年3月 8日 (土)

ボリビアの高峰、“黄金のコンドル”

ブログのデザインを新しくしてみました。もうちょっと山の話をした方が良いのかなぁと思ってます。

やはり海外の山は素晴らしいです。そのスケールは日本とは比べものにならないし、いくら写真などで山々の美しさを知っているつもりでいても、実際に海外で憧れの山と向かい合うと、自分が想像していた以上のことが多くて、とても感動するものです。

ヨーロッパアルプスのマッターホルンやアイガー、南米のアルパマヨやフィッツロイなどは“世界の名峰”として有名だし、よく雑誌とかで紹介されています。りお太郎は頂上までは登ることができなかったとしても、そういった山々を眼前にしてきました。頭の中でいくら思い描いてみても、本物の迫力にはおよびません。登山電車の窓のむこうからいきなり現れたマッターホルンや、数日間のトレッキングの末たどり着いたベースキャンプで、アルパマヨの聳え立つ姿には、度肝をぬかれました。しかし、海外に行くと、自分が知らなかった山にも出会うことができます。名前さえも聞いたことがなかった山に出会い感動するのは、ずっと訪れてみたかった山に出会ったときとは違い、新鮮な驚きがあります。ここでは、りお太郎が南米のボリビアに行ったときのことを紹介しようと思います。

ボリビアの首都ラパスは標高が3,800mくらいもあり、まわりはアンデスの山々に囲まれています。お金持ちの住む新市街は3,600mくらいで、市内で最も標高が低くて温暖な場所にあります。町のはずれに行くと4,000mを越えてしまいますが、そこにも人が住んでいます。郊外をあわせると、ラパスの人口は300万人以上あるようです。りお太郎は1週間くらい滞在しましたが、標高が高いことを忘れてしまうくらい活気があり、ちっとも退屈しない町です。こんな大都市にいて、いわゆる高所順応ができる場所は世界中、他にないでしょう。

ラパスは町全体が大きな谷にあります。中心街は谷底で、そのまわりに住宅などが斜面にへばりつくような感じで建っているのです。とにかく坂が多くて、上り坂を息を切らしながら歩いていると、この町が富士山より高い場所にあることを認識させられるのです。この町に来て、いきなり走りまわったら間違いなく高山病になるでしょう。りお太郎はボリビアの最高峰“サハマ山”に登りたかったので、ラパスで買出しをしたり、情報収集をしながら登山に備えたのでした。

319567_3結局、サハマ山の登山は失敗しちゃいましたが、その後に休養を兼ねてラパスをじっくり観光しました。民族音楽を聴いたり、土産物屋をまわったり、“月の谷”と呼ばれる岩の侵食によってできた観光地を訪れたり、標高5,400mの世界最高地にあるスキー場にも滑りに行きました。そんな中、ラパスの郊外、いわゆる谷の上にある市場に行ったときのことでした。ラパスの町をはさんで谷の向こう側に、あり得ないくらい巨大な山に気づいたのでした。その山の姿は、自分の目を疑いたくなるくらいほどで、まるで空に絵を描いたようにも見えたのでした。

308863_4標高6,439m、イリマニ山。その山はラパスの町外れにあります。というかラパスの町が、イリマニ山の麓からはじまると言った方が良いかもしれません。4つのピークが6,000m以上の稜線でつながっているアンデス山脈のジャイアントです。イリマニというのは、先住民族の言葉で“黄金のコンドル”だということで、本当に巨大な鳥が羽をひろげているように見える山です。スゲーな、この山は!りお太郎はラパスという大都市にいながら、ドでかい山がこんな近くにあることが驚きでした。ラパスに長期滞在し、イリマニを登ってやろうかと一瞬考えましたが、技術的にも難しい山だし、サハマ山で痛いほど6,000m峰の大変さを実感していたので、それは諦めなくてはいけませんでした。

263580晴れた日の夜に、りお太郎はラパスの町を散歩してみました。月は満月のようで、空がとても明るい夜でした。坂を上って、イリマニ山が見える場所まで行きました。ラパスの夜景も見下ろせるところです。そこには、ラパスの灯りと、月光に照らされたイリマニが静かに聳え立っていました。世界には、こんな山があったのか。南米に来て良かったなぁ。りお太郎はひとり旅の寂しさを忘れて、ひとりでニヤニヤしながら、ずっとその美しさにみとれていました。そして、今度ラパスに戻ったときは、あの頂に立つことができたらなぁと切に願ったのでした。

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2008年3月 2日 (日)

青い瞳に伝えたかったこと 長い補足

りお太郎は19歳のとき、フルマラソンに参加した。高校を辞める2ヶ月前のことである。

3年半通ったオレゴンの高校をちゃんと卒業するには、あともう2年くらいは必要だっただろう。ハタチになっても高校生ではいたくなかった。りお太郎の選択択には、もう大検を取得して、とっとと大学に進学するしかなかった。身近な先生もそれを勧めてくれていた。それは英語をなかなか身につけることができず、授業についていけなかったこと、また、その高校のカリキュラムに馴染めなかったことがあるが、ともかく自分自身の不甲斐なさが原因だった。

さて、オレゴン州最大の都市、ポートランドで毎年10月に開催される“ポートランドマラソン”は9,000人のランナーが走る大きなレースである。、高校にはマラソン好きの先生が何人かいて、校長先生や、料理長のトニー、親代わりの先生だったスコットの奥さんなどが、この大会に毎年のように出場していた。学生たちは無関心だったが、校長先生が参加するということもあり、これを学校への寄付を募る格好のイベントとして位置づけていたりした。学生たちは1キロに何ドルという約束をして、実際に先生が走った距離を寄付させられる。例えばトニーに2ドルを寄付をすることにすると、彼が42.195kmのフルマラソンを完走すると84ドルも取られる。これで先生たちはモチベーションを高めていたようだが、結果的に寄付したお金でトニーが作る食事の質が上がったり、目に見えて寄付したお金が有効的に使われもしないから、学生たちは冷ややかな目で見ていたものだった。

学生は誰一人と参加しないマラソン大会に、りお太郎は“走りたい”と言い出した。高校を辞めて、コロラド州の短大に進学することがちょうど決まった頃で、せめて最後に自分自身が満足できることを、ひとつでもやり遂げてみたかった。ずっとジョギングを続けていたから、フルマラソンを完走できる自信はあった。何もかも中途半端だったりお太郎にとって、自信をひとつでも持てるきっかけがほしかったのである。

初めて学生のひとりが一緒に走ることになり、いつもお祭り気分だった先生たちは色めきたった。校長先生は50歳の手前くらいだったが、エネルギッシュなことで学生から支持されており、マラソン初挑戦者などに負けることはできない。自称マラソン・マンと言っているトニーは、日本人の若造め、と闘志をむき出しにするものだから、仲間たちはリオが先生たちとどれだけ競い合えるかを少しばかり注目したのだった。

先生たちの中で、りお太郎が最も親しかったのはスコットという先生だったが、その奥さんはめちゃめちゃ元気な人だった。スコット先生は亭主関白ではなく、尻にしかれていた方だったと思うが、奥さんは毎年ポートランドマラソンを完走していた。それが、リオも走るということになったら、スコットは奥さんより、なぜか僕の方をひいきにしてくれた。You can beat her, Rio! おまえは勝てる、とか言ってくれて、わざわざ高校のロゴが入ったタンクトップを用意してくれた。ダサいなぁと思ったが、スコットにしてみれば、いつも目にかけている学生の方が、奥さんが得意としているマラソンで勝ってくれたら、優越感を感じられて気持ちが良かったのかもしれない。

まるで陸上の代表選手みたいなウェアをもらったことは、りお太郎にとって恥ずかしいことではあったが、ちょっとだけ嬉しかった。勉強においても、スポーツにおいても、また私生活においても、まったく冴えない男だった自分が、いちおう学校の看板を背負うようなかたちになったのである。朝走っているところを、窓から見ていてくれた青い瞳の子に、そのシャツを見せたいと心の中で思ってしまい、よけいに恥ずかしくなった。

初めてのフルマラソンは、さすがにきつかった。ゴールはとにかく遠い。スタートからすぐに先に行ってしまった先生たちよりも、ずっと後ろの方でマイペースで走った。途中で校長とトニーとすれ違ったが、ふたりともすこぶる調子が悪そうだった。体調が芳しくなかったようで、結局リタイヤしてしまう。逆にりお太郎は快調になってきて、スコットの奥さんも20kmくらいのあたりで抜いた。ポートランドでいちばん大きな橋、セイント・ジョン・ブリッジまでの登り坂がきつかったが、橋の上から見た山々と町並の美しさに感動した。そこでもう一度力を振り絞り、気合を入れ直して走ったが、残りの10kmはペースダウンしてしまった。もう立ち止まってしまうか歩き出したくなったが、なんとか最後まで気力で走った。

無我夢中で走りながら、朦朧とする頭の中で思い出がかけ巡っていた。

朝、校門から続く登り坂の上で彼女と会って、声をかけてもらった。それによって、どれだけ自分は元気付けられただろうか。正直なところアメリカでの生活は寂しかった。言葉が違うことによって、なにもかもが別世界にいるような気分で、いつも落ち着かず不安なことばかりだった。そんなとき、あの子は自分の存在に気づいてくれた。実力社会のアメリカにおいて、自分はなんの評価にも値しない人間で、まさに落ちこぼれだと感じていた。英語が全然分からずに下ばかり向いていたけれど、彼女にはほんの少しかもしれないが、認めてもらえたのかもしれなかった。その彼女に、面とむかって自分の気持ちを伝えることはできなかった。でも、リオという人間のことを、青い瞳の子の記憶にとどめることができないだろうか?

ボロボロになりながら、ラストスパートをかけてゴールまで懸命に走った。そんな姿を彼女は見ていない。それは、あたりまえのように分かっていたが、それでも必死になって走らずにはいられなかったのである。このマラソンがずっと毎朝あの子のことを思いながら走ってきたことの集大成のような気がしていた。

さて、いい加減この長い思い出話を終わりにします。青い瞳の子には結局告白などすることはできませんでした。でも、実は彼女は多分僕の気持ちを知っていました。彼女の親友のひとり(注:とてもおしゃべりな子)に、リオの好みの女性はどんな人かと聞かれたことがありました。それは難しい、とかなんとか言い逃れをしようとしましたが、まったく許してくれなかったので、ついにあの子の名前を出してしまったのです。そして、さんざん冷やかされた後、Why her? なんで?と問い詰められました。僕の答えは、Because, she's got beautiful eyes. とてもきれいな目をしているから、というものだったはずです。

りお太郎は先生たちの誰よりも早いタイムでゴールしたので、校長先生をはじめ、みんな面目まるつぶれでした。そこで、何よりも嬉しかったのは、あの怖いベアー先生から、Hey, you! Marathon man! おい、おまえ!マラソン・マンと親しみをこめて呼んでもらえるようになったことでした。

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