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2009年5月 5日 (火)

メキシコが好きになった夜

メキシコが大変なことになっている。これ以上感染者が増えないことを願うばかりだが、何にしてもメキシコから離れ、世界各地に滞在しているメキシコ人の方々が、不当な扱いを受けているというニュースを見ると、とにかく悲しい。

りお太郎がメキシコを最初に訪れたのは19歳のときで、それ以後にも2回訪問している。言葉がほとんどできない外国人にも、メキシコの人たちは温かく接してくれた。自分にとって、良い思い出ばかりしかないメキシコで、今どのような状況になっているのかを想像することすら難しい。

もう15年くらい前になるが、りお太郎は大学の“授業”の一環で、メキシコのバハ・カリフォルニア半島に来ていた。大学で“アウトドア”を専攻していたので、これも実習というわけで、温暖で美しい海が広がるバハで、シーカヤックを漕いでいたのである。天気はいつもすこぶる良好で、カヤックの横をイルカが飛び跳ねる中、穏やかな海を巡り無人島を探検するという、ほんとに最高の授業が展開されていたのだった。

その実習には20人くらいの学生で来ていたが、昼間の“授業”ではアウトドア活動に専念し、探究心、冒険心を追及しながら、一致団結で真面目な取り組みを見せていたが、我々はメキシコの実習における夜の部にも、エネルギーを注ぐことを怠らなかった。大学の実習なので、お酒はご法度になっているし、アウトドアの勉強をしている身なので、宿に泊らせてもらえるはずもなく、ビーチにテントを張り野外泊の実習だった。それはそれでかまわないのだが、探究心と冒険心に満ち溢れているため、夜抜け出して町に繰り出したい欲望を抑えることができなかった。

りお太郎は仲間に連れられて、バーで“パシフィコ(太平洋)”というビールを浴びるほど飲み、フィッシュ・タコス(魚のフライを巻いたタコス)をたらふく食べた。ほろ酔いになったダメ学生たちは、町をねり歩くうちに、あまり治安の良くない場所に潜入してしまうのである。ここで、ギャングのような連中に身ぐるみ全部盗られるようなことになってしまえば、せっかくのメキシコの実習も台無しになるのだが、りお太郎を除けば、全員がカラダのデカいアメリカ人たちだったので、みんな怖いもの知らずのようだった。

町の賑やかな通りをはずれて、奥に一歩入れば雰囲気はガラリと変わった。昼間の眩しいような空と青い海からは想像できないほど、暗くて貧しい生活がそこにはあった。崩れかかっているような家にも、ちゃんと生活があり、不自由していないように見えた陽気なメキシコ人たちの現実を目のあたりにしたのだった。広場では子どもたちが裸足でサッカーに夢中になり、泥まみれになっていたが、その姿はアメリカの恵まれた子どもたちと比べると、あまりに違い過ぎた。

仲間のアメリカ学生たちは言葉を失い、一気に酔いが醒めたようだった。りお太郎も、わけの分からない罪悪感を味わいながら、いち早くテントに戻りたい気持ちになった。しかし、そこで退散してしまえば、自分たちがメキシコの人たちとは違う世界から来た人間だと認め、別々の国だから現実はどうしようもないのだと納得してしまっているようで、とにかくやるせなかっただろう。そこで、仲間のひとりがスペイン語で子どもたちにむかって、“サッカーに入れてくれ!”と頼んだ。あまり乗り気でなかったようだが、無理やり混ぜてもらい、勝手にチーム分けまで始めたものだから、仕方なく子どもたちは受け入れてくれた。アメリカ・メキシコ混合チームのゲームは、圧倒的にメキシカン・プレーヤーの優勢で進んだ。アメリカ人は基本的にサッカーが苦手なやつが多いのだが、子どもたちの技術の前に、散々な有様だった。その中で比較的善戦したのは、りお太郎だったのである。任されたポジションはキーパーで、体を張って鉄壁の守りを見せた。終了後、チームメイトの子どもからは、メキシコ人名キーパーとして当時人気があった“ホルヘ・カンポス”のようだと賞賛された。

お互い泥だらけになれば、心は通じる。外国人観光客という、地元にとってお金を落としてもらいたいだけの存在なのかもしれないが、一緒に交わりたいという気持ちと、言葉は通ぜずとも、カラダ同士で対話したいという思いを見せることで、最後には笑顔で握手を交わすことにつながった。

りお太郎にとって、メキシコの大自然とのふれあいも大切な経験になったが、暗い中でサッカーボールを追いかけながら嗅いだ土の匂いと、子どもたちに蹴られたときのカラダの痛みは、忘れられない独特な記憶として鮮明に残っている。

遠い日本から、りお太郎はメキシコをずっと応援している。

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