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2009年7月25日 (土)

登山ツアーでの事故

北海道で痛ましい事故が起こった。亡くなられた方たちのご家族のことを思うと悲しくてやるせない。みんな山が本当に好きで、遠い西日本から憧れの大雪までやって来て、楽しみにしていた登山中に今回のような事態になってしまったことは本当に残念だ。 

この遭難によって、ツアー登山の問題、特に旅行会社の責任がクローズアップされた。山登りというリスクの高い活動を商品にして、顧客に安全かつ魅力的なサービスを提供することは、とても大変なことに違いない。提供する側にしてみたら、並大抵の覚悟でできることではないし、企画や準備、そして実際のガイド業務でも、何一つ手を抜けない難しい仕事ばかりだと思う。りお太郎は、山岳系のツアーを主催する旅行会社で働いている方やプロの山岳ガイドと、少なからず一緒に仕事をさせてもらい、いろんなところで話をしてきたが、みんな心から尊敬できる責任感の強い人たちばかりだ。

結果的に多くの命が奪われている以上、その責任がツアーを運営している当事者、今回の場合は旅行会社に、全く無いとは言い切れないけど、登山ツアーを否定し、ガイドを悪者扱いにして、ひたすらアラさがしをしているような報道は、見ていると胸が苦しくなるばかりだ。登山の業界に携わっているひとりとして、りお太郎も遭難事故において何が問題だったのを検証する必要があるのかもしれないが、今一番気になるのは、旅行会社のやり方に不備があったかどうかよりは、そのもとで働いているガイドの人たちが、山を案内するという仕事に対して、どのような思いがあるかというその一点である。

北海道の山の素晴らしさは、よく知っているつもりである。大雪山からトムラウシを縦走し、歩いてきた行程をふりかえれば、そこには雄大な景色が広がっているはずで、誰もが感動できる最高の場所なのだ。そこに多くの人を案内し、一緒に感動を共有することには、すごい価値があると思う。ただ単に、仕事だからトムラウシに行かなくてはならないと割り切っていたり、あるいはガイドは安全にお客さんを連れて行程をこなせば良いと思っているような人は、そもそもこの業界で仕事をするはずがない。ガイド業務とはそんなチャチなものではないし、ガイドは自らの意思で山に入っているはずで、連れていくことになるお客さんに対しては、本気で山の魅力を伝える意志があると思う。山を案内する理由は、単に仕事だからというのではなく、登山の楽しさや自然の豊かさを深く知ってもらいたいからなのだと、ガイドには胸を張って言ってもらいたい。

お客さんにも山を好きになってもらいたいという熱い気持ちがあれば、必然的にガイドは準備周到になる。本気で登山を楽しんでもらいたいと思えば、装備はしっかり整えるだろうし、コースを下見し、じっくり案内のプランを練ることになるだろう。いきなり知らない山に誰かを連れて行っても、楽しませることが難しいのはガイドであれば当然分かることだ。

自分の案内したい山をガイドできなかったり、自分が案内したいように、じっくり時間をかけて歩いたり、天候が悪くなったとき、自分ならこうするだろうという行動をとれずに、しがらみや規定にあわせて行動するようなら、ガイドの本分は失われてしまうと思う。そして、危ない橋を渡らなくてはならない。ガイドにそんな心配があるのなら、良い仕事はできないだろうし、責任のある仕事をやっていても、誇りも喜びも持てないかもしれない。

登山は危険というイメージが、ますます強まっていくのかもしれないが、プロのガイドを信頼し、その信頼に精一杯こたえるべく懸命に仕事に向き合っているガイドに対して、“ありがとう”と、ひとこと言うことのできるお客さんたちが、登山ツアーに戻ってきてくれることを、りお太郎は切に願っている。

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2009年7月13日 (月)

りお太郎の転機となった出来事 ①

今から11年前、1998年は自分にとって転機となった年だった。大学の4年生だったので、いちおう卒業にむけて、就職活動らしいことを行い、アメリカの大学の年度末にあたる5月までに進路を決めていた。

コロラド州の山奥に4年間住んだので、大学を卒業したらちょっとした都会で暮らしてみるのも悪くないと思っていた。そんなりお太郎が、アメリカで一番馴染みのあるオレゴン州のポートランドで仕事を見つけることができたのは幸運だったといえる。

就職活動にあたっては、他のアメリカ学生を差し置いて、わざわざ自分を雇ってくれる企業があるとは到底思えなかったが、もし自分にチャンスがあるとしたら、それは日本人で日本語を話せるという優位性を活かすしかないと気がついたのである。大学の先生からも、外国人学生に就労ビザが発行されるように、手続きと手間をかけてくれる企業は極めて少ないだろうから、就職先は日系企業に絞った方が良いと言われたことを記憶している。

ポートランドは当時、アメリカ西海岸において日本人に人気がある町だった。あまりにも定番化していたロスやサンフランシスコに飽きた人が、アメリカ北西部のシアトルやオレゴンを訪れはじめており、特にオレゴン州のポートランドは物価が安い地方都市なのにくわえて消費税がないことと、人気スポーツブランドのナイキやコロンビアの本社があるため、日本人好みのショップが多くあったのである。

そのポートランドにある観光地のひとつがOMSI(Oregon Museum of Science and Industry)という科学博物館で、そこではアメリカ産業に関連した展示物があり、例えば本物の潜水艦の中に入れたり、デカいプラネタリウムとかがあり、その他にも多くのイベントが開催される場所だ。日本のガイドブックにも小さく紹介されているようなところなので、りお太郎は日本人観光客の対応なら、パーフェクトにできますよ、と履歴書を送りつけたところ、5月からすぐに研修生としてウチに来なさいと、OMSI側から連絡があった。研修期間で仕事ができそうだと分かれば、正社員として雇い入れるつもりだという通達で、正社員としての給与や待遇まできちんと載っているような書類がゴソっと入った封筒が届いたのだった。

大学の先生は信じられないという顔で、これはワンダフルだ。リオはラッキーだ。などと言って喜んでくれたし、就職が決まらない仲間たちは、オーマイガッ!と頭をかかえて悔しそうにしているので、りお太郎はすぐにその気になった。高校からアメリカに8年も滞在し、とても自慢できるような成績ではなかったが、なんとか大学を卒業できそうだし、語学力に関しては全然頼りない自分ではあったが、とにかくアメリカで仕事が手に入りそうなのだ。おれ、がんばったな~と少しばかり誇らしい気分に浸ることができた。しかし、この先にはものスゴイ出来事が待っていることを、りお太郎は予測することすらできなかった。1998年はとにかく長い長い1年になるのだった。

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