2012年9月 4日 (火)

三陸海岸を、自転車で行く ③

この自転車の旅の初日、目標としていたのは女川まで行くことだった。女川はちょうど三陸海岸の南の端なので、キリがよい場所だと思っていた。まだ体が慣れていないから、無理をするつもりはなかったが、石巻から女川に向かい、走行距離80kmを超えてもまだまだ元気だったし、仙台空港からずっと暑い中を力強く走って来たことが、明日以降の自信につながるだろうと感じた。

小さな港町である女川には原発がある。この原発にも、ものすごい津波が迫っていたようだが、施設が高台にあったため、間一髪のところで福島のようなことにはならずに済んだそうだ。それとは逆に、三陸海岸特有の狭い入り江の奥に位置している女川町自体は、甚大な被害を受けた。実際、海から少し離れた場所では普通の田舎町といった印象しかなかったのに、町の中心に下りていくと、そこにあったはずの市街地が完全になくなっていたので驚いた。すでに、ほとんどのがれきは撤去されていたのだと思うが、だだっ広い空き地となってしまった町の中心と、港があっただろう場所に残されている建物の残骸などから、そこに港町が存在していたことを頭の中で想像するしかなかった。

これが現実(youtubeより): http://www.youtube.com/watch?v=CCSTYTq_mJQ

初日の宿泊場所は、女川湾に突き出ている「崎山展望公園」にしようとかなり手前から決めていて、女川の町と太平洋を一望にしながら、テントを張って寝る計画を勝手に立てていた。今回の旅のお供には、チャリダーの定番、「ツーリングマップル2012東北版」を持ってきており、この地図には震災後の情報も掲載されていたので、信頼を置いていたが、最後の最後で、この地図には全く載っていない状況に出くわすことになった。

女川から「崎山展望公園」までは、国道398号の上り坂をひたすら進む。この道路の状態は完全復旧からはほど遠く、至る所で工事が進行中で、舗装がされていないところがあるので自転車にはツラかった。しかも、やっとのことでたどり着いた公園は崖崩れによって立入禁止であった。この展望公園を目指し、疲れが溜まってきた体を振り絞って急坂を登ってきたので、この状況に行きあたったときは「マジか~!」と叫ばずにはいられなかった。

狭い道路の脇には、キャンプをするスペースを見つけられなかったので、ガタガタで、アップダウン連続の398号をもうひと踏ん張り走ることにして、地図の上に海水浴場マークがある御前浜まで行くことにした。自転車の走行距離メーターは95kmとなり、やっとキャンプに適した場所を見つけたところで、その日の行動を打ち切ることにした。

長い長い一日の果てに到着した御前浜には、人家は1軒、2軒しか見られず、本当に何もない場所だったが、そこでたまたま出会った人から話を聞いたことが、石巻や女川を目のあたりにしたうえに、さらに深く考えさせられるきっかけをくれることとなった(つづく)。

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2012年8月30日 (木)

三陸海岸を、自転車でゆく ②

 仙台港付近から国道45号に入った。この国道は三陸海岸をとおり青森県の八戸や十和田市まで続いている。この先、国道45号を避けていくことはできないので、好きとか嫌いとか関係なく、この道にお世話になりながら八戸を目指すことになるのだ。そのまま国道沿いを走り、多賀城と塩釜をあっというまに通り過ぎ、松島に到着した。

 

お盆休みだったこともあるが、ものすごい人混みに驚いた。車道は渋滞しているし、歩道には人が溢れていて、自転車は走るところがない。公園の中を走り抜けたりしながら、日本三景の景観には目もくれずに通過する。松島のあたりは津波の被害が比較的小さかったと聞いていたけど、これだけ多くの観光客を迎えられることは、風評被害が大きい福島県の観光地と比べれば明るい状況にあると思った。

 

海沿いに石巻方面に行くと、また津波の爪痕が現れる。そしてJR野蒜(のびる)駅に着き、ここで大きな休憩をとった。野蒜の駅舎は一見ダメージを受けていないようだけど、ホームと線路は完全にぐちゃぐちゃになっている。ここも、津波によって凄惨な被害を受けた場所なのだ。下記の状況についてはあとから調べて知った。

http://www.jgnn.net/ls/2011/05/googlemap.html

 

Dsc_0012_4石巻に着くと、少し拍子抜けだった。思っていたより大きな町だなという印象で、津波で壊れた建物はたくさんあるけれど、営業しているお店も多くて、活気がある。復興がすすんでいて良かったなと思いながら、せっかくだから海に近いところを通っていこうと考え、国道45号から離れ、すでに稼働している日本製紙の大きな工場の横から、南浜町という地区に入っていくと、景色はガラリと変わった。そこにあったはずの町のほぼすべてが消えていた。多分、たくさんの住宅と、いろんなお店とかがあったはずだけど、全部洗いざらい津波に持っていかれてしまった。そして荒野のような真ん中に、「がんばろう!石巻」と書かれた看板が立っている。すぐそばの献花台には手を合わせている人がいた。あぁ、これが現実なのか。未曾有の大震災はわずか1年半前のことであり、平和だった海辺の町が突然襲われて、町と一緒に多くの人が犠牲になっているという受け入れ難い事実は、ここで確かに起こったことなのだと否応なしに実感することができた。

 

そこで目にした光景は無残なものばかりで、まだ新しいように見える南浜町の市立病院はただの大きな廃墟になっている。また、すぐ近くには津波のあと、火事で焼けてしまった門脇小学校の校舎があった(紅白歌合戦では長渕剛がそこのグランドで歌っていた)。しかし、南浜町の景色の中で、最も目を引くものは別にあり、それは、目をそむけたくなるようなものだけど、あまりにも巨大なのでどうしても視界に入ってくるのだった。

 

その日、石巻は快晴で、海は青く穏やかだったが、それらのすべてが覆い隠されてしまうくらい、とてつもなく大きな、がれきの山がそこにはあった(つづく)。

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2012年8月28日 (火)

三陸海岸を、自転車でゆく ①

旅に出たかった。どこか知らない場所に無性に行きたくなった。

 

自分探しの旅をするような年齢でもないし、何かこれといった目的があるわけでもない。しかし、職場では連続した休みを取ることが可能であり、家族は身勝手な行動をある程度容認してくれる。自分はそんな恵まれた環境にいるのだから、好きなことをやったらよいじゃないか?旅をする理由と言えば、そんな言い訳がましいことしか思いつかない。いちおう、家族には何か説明しようと思ったが、10代の頃から思うが儘に旅に出かけ、何の為に旅をするのかなど全く考えてこなかったわけだから、今さら都合のよい大義名分が見つかるわけがない。旅をするのが趣味、というよりは旅に出かけたくなる病気なのだと中途半端に開きなおって、家族にはあきらめてもらうしかなかった。

 

6日間の休みをフルに使えば、長い山行ができるが、昨年もおととしも8月には北アルプスに行ったことを思い起こし、今回の旅はまるっきり別の場所に行くべきだと考えた。そこで、登山ではなく、久しぶりの自転車の旅を思いついた。

 

P8160001_3プランはあっという間にできあがった。まず、車に自転車を積んで仙台空港に向かう。空港周辺には格安の駐車場があるので(1390円で、6日間駐車しても2,340円)、車はそこに置いていく。もちろん飛行機は使わずに、そこから自転車の旅がはじまる。太平洋沿いにひたすら北へ走り、石巻、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、宮古と東日本大震災で大きな被害を受けた地域を巡り、青森県の八戸をゴールとする。できるだけ沿岸部の道路を選んでいくと距離はおおよそ500kmで、三陸海岸はリアス式で入り組んでいるため、地図上で見る印象より実際の距離はかなりある。八戸に無事たどり着くことができれば、あとは自転車をバッグに詰め込んで、高速バスを使って仙台に戻り、車をピックアップして帰途につくことができる。三陸のどこかで挫折した場合は、JRが復旧していない為、面倒なことになることは確実だが、それについては深く考えないことにした。

 

長期のツーリングは和歌山から伊勢まで紀伊半島の海外沿いを走った以来なので、自分の体が1日何km程度走れるのか未知数だった。紀伊半島でも大変な思いをしたが、三陸海岸もリアス式で沿岸の国道・県道ともアップダウンが激しいだろうから、1100kmを楽に走らせてはくれまい。しかも震災によって、道路の状況が良いはずがない。それでも、想像を超える巨大津波によって被災した地域をどうしてもこの目で見てみたかった。一度も訪れたことがないから、震災前と震災後の変化や、1年半でどのくらい復旧しているのかなど実感することはできないかもしれないけど、車とかでパーッと訪れるのでなく、少し苦労して自転車をこぎながらじっくり見れば、何か感じることができるかもしれない。自分なりの方法で、被災地の訪問を図々しく敢行することにしたのだった。

 

茹だるような暑さの中、仙台空港の駐車場から仙台平野を突き進んだ。仙台市中心のビル群を陽炎のむこうに見ながら、沿岸に近い県道10号を走っていると、あきらかに津波をかぶったことが分かる痕跡を次々に目にした。1階が柱だけになった無残な建物の多くが放置されたままなのだ。仙台の街からさほど離れていないところで、ものすごい津波が押し寄せてきたという事実。311日、名取市や仙台市若林区の状況は、空からの撮影によってテレビにLIVEで映し出され、その衝撃的で絶望的な映像に釘付けになった。あのとき見ていた現場の真っ只中を走っていると、生々しい傷跡の前では、自転車を停めることができずに、とにかく先を急いでしまうのだった。汗をダラダラ流しながら、逃げるように石巻方面を目指して進んだが、どんなに急いでも津波によって破壊された建物が無くなることはなかった。なぜならば、この旅で通過することになる地域は全部、津波の被害を受けた場所なのだから。(つづく)

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2011年10月 9日 (日)

山が教えてくれたこと。

最近はただただ平凡で、エネルギーを吐き出すようなこともなく、なんか息苦しい毎日が続いていたけれど、専門学校のときの学生と一緒に山に行ったことで、純粋な情熱を少し分けてもらえた気がしていた。

 

そして今日、発売されたばかりの「岳」15巻を読んだら、たいしたことないくせにふさぎこんでいた自分が情けなくて、もっと上を向かなくてはならないと思ったのだった。この三歩のセリフには、ジョージ・マロリーの「そこに山があるから・・・」くらいに重みを感じた。

 

「登れる、登れないは分からない。やるまで分からない。

 だから・・・ オレは“やる”を選ぶ。

 後のことは山が教えてくれるんだ。」

 

アメリカにいるとき、自分には何もなくて、どうしていいのか分からなくて不安で不安で仕方なかったけれど、山登りだけは確かなことのように感じることができた。

 

地図を眺めていると、行ってみたいな、と思う山はいくらでもあった。ザックに装備と食料を入れたら、大学の授業のことなんか忘れて、ひとりで山に入っていった。

 

頂上にたどり着けることもあれば、やっつけられて帰ってくることもたくさんあったけど、岩でゴツゴツしたコロラドの4000mを超える山たちは、自分自身にとって最高のフィールドであり、いろんなことを教えてくれる良い学校だった。

 

毎週のように山に登り、それが何になるのか、将来につながる何かがあるのか、全く想像さえできなかったけれど、山と向き合うことが楽しくて、それが生きがいだったし、そのときの自分が選んだ最良の選択肢が、青春を山に賭けることだったわけで、それは間違っていなかったと自信を持って言える。

 

山が教えてくれたことは・・・

登れる、登れないかは分からない。それでもやってみること。

できる、できないかは分からない。それでもやってみること。

それによって、きっと成長できるのだから、やってみるしかない。

 

それは登山を通して、自分が得た信念だったはずなのに、最近忘れていたようだ。

 

大学卒業後、どうなるかはわからんけれど、南米に半年旅に出てみようと決めた。

そしたら新しい世界が広がったし、エクアドルのチンボラッソの頂上にひとりで立つことができた。

 

日本に戻って、朝も夜もアルバイトに明け暮れていたとき、アラスカのマッキンリーに行かないかと誘われて行ってみた。それで高山病であやうく死にかけっちゃったけど、命を救ってもらった大切な仲間を得ることができたし、山登り以外の新しい人生の再スタートも切ることができた。

 

専門学校で学生を山に連れていくときは、登れるか、登れないかは分からない。その際どいところを基準にして、たくさんの山に一緒に出かけて、たくさんの感動を共有することができた。それは山が与えてくれた素晴らしいプレゼントだったし、人生の糧となっている。

 

今、仕事をしながら、ここにいれば一生安定、安心なのだからと、自分に言い聞かせることがある。それは登れるか、登れないか、みたいなこととは明らかに違う気がする。ちゃんと胸をはって、結果がどうあれ、やる!と思えるような仕事がしたい。それを早く見つけることが今の課題。

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2010年9月29日 (水)

進学先は、“大自然の中にある大学。”

りお太郎が3年半過ごしたオレゴンの高校を中退したのは12月で、その年が明けてすぐ1月からは、コロラド州のコロラド・マウンテン・カレッジ(CMC)に入学し、晴れて大学生活をスタートさせることになった。アメリカの学校での年度始め、日本で言えば4月にあたるのが9月なので、1月入学というのはかなり中途半端になりがちで、他の大学ならば違うのかもしれないが、CMCの場合は入学式などあるわけでなく、学校に着いたら、すぐに諸手続きを済ませて、授業を受けることになっていた。今まで行ったこともない未知の土地で、頼りない留学生の自分が大学生として果たしてやっていけるのか、そんな不安でいっぱいだったことは憶えている。

CMCのメインキャンパスがあるのは、ロッキー山脈のド真ん中にあるLeadville(レッドビル)という町で、標高が3,000mあり、アメリカで最も標高の高い市となっている。4,000mオーバーの高峰にかこまれていて、あたりまえのことだが、冬は寒くて雪が多い。りお太郎はその場所に、コロラドで最も過酷な時期といえる1月にいきなり乗り込んでいった。オレゴンから長い長い道のりをこえて、いくつもの峠を登っては下り、最後に一番大きな峠を登りきって、やっとたどり着いた場所がレッドビルだったわけだが、大学生として晴れやかな気持ちで、これから新しい生活を送ろうとしている町は、完全に雪に埋もれていた。それはそれは、すさまじいほどだった。実際、四輪駆動でない、りお太郎の車では、レッドビルまで来るのは容易なことでなく、半ばあきらめそうになりつつも、新入生が大学の授業に最初から遅れてしまってはマズいだろうと、ぎりぎりのところで思いとどまり、なんとか雪をかきわけやってきたのだった。こんな山奥に、果たして人が住んでいるのだろうか?こんな辺境に、大学なんてあるのだろうか?全く信じられない思いだった。でも、レッドビルの人口約4万人は、たくましく生きていた。そして、確かにあったのである。こんなところにも、大学があった。そこは、物好きな連中ばかりが集まる大学で、りお太郎もそういった学生のひとりとして加わることになったのだった。

高校で進路を決められないでいるとき、たくさんの大学のパンフレットを取り寄せたが、CMCのパンフからは、肝心のカリキュラムのこととかは良く分からなかったが、特徴的な点が多い大学であることは分かった。キャンパスの通称はtimberline campusと言い、直訳すると“森林限界キャンパス”と言うのである。ロッキー山脈の高地、まさに大自然の中にある大学で、スキーとか環境保全を専攻して学べるところなんかは珍しいなぁと思ったが、特に惹かれたのは、なんといっても“アウトドア・レクリエーション”専攻だった。専門科目はというと、バックパッキング、カヌー、XCスキー、渓谷での活動、砂漠での活動、etc. これは授業なのかな?と首をかしげてしまうくらいで、他のフツーの大学では、絶対にできない経験ができそうだということを感じ取ることができた。高校在学中、グランドキャニオンなどの国立公園を訪れたり、山登りなんかにも行っていたりお太郎にとって、冒険心を刺激される内容ばかりなので、CMCのパンフレットの写真を食い入るように見入っていたら、他の大学のパンフレットなど、全く見る気が失せてしまうほどだった。

りお太郎はパンフレットの写真から、ものすごく憧れを抱いていた大学にやっとのことで到着することができた。しかし、パンフレットでは、バランスよく四季折々の自然が紹介されていて、冬の様子ばかりを強調していなかったせいか、自分が想像していたものとはかけ離れていて、たしかに大自然には違いないけれど、1月のCMCは一面真っ白過ぎて味気なく、真面目な話、閉鎖されていないのが不思議なくらいの大学であった。そして、大学の校舎と呼ぶには、あまりにも小じんまりとしていて、厳しい自然環境の中にあるのに、安っぽいプレハブみたいのがポツンポツンと建っているだけなので、最初はそこが校舎なのか、それとも学生が住んでいる寮なのかさえ判別できず、半分以上が雪の下に隠れてしまっている建造物からは、南極の昭和基地を思い浮かべずにはいられなかった。実際、りお太郎はもっと大きな校舎がどこかにあるのだと思い込み、探し回ったあげく、結局最初に見つけた昭和基地チックな建物が、各オフィスと教室とかが入っている一番中心的な校舎だと知って驚き、さらに、何十年も前から廃屋となっているようにみえた木造の建物が、実はバリバリ利用されている学生寮だと分かって愕然としたのだった。ちなみにその寮に、りお太郎も住むことになったのだが、卒業するのとほぼ同じタイミングでそこは取り壊されてしまったので、“歴史的”な建造物を住居とした最後の学生になれたことは幸運だったとも言える。

どこにいくにも、車がスタックしてしまうことに怯えた。そして、少し気を抜くと車は完全に雪の下に埋まることになり、発見までは春を待たなくてはならない。また、徒歩で出かける際などは、防寒着着用のうえ、ひざのあたりまでかくれるブーツを履かなくてはならず、帽子や手袋をしないで外に出てしまったならば、命が危険にさらされるような世界であった。これはスゴイとこに来てしまったな、と、途方にくれるとともに、自分自身が決めたことによって、気がつくと思いもよらない展開になっていることにただ驚かされた。

しかしながら、コロラド・マウンテン・カレッジでの2年間は、りお太郎がその後どのような生き方をしていくか、方向性を定めていく時期となり、この大学へ進学したことは、間違いなく人生において重要な分岐点のひとつであったのだろう。りお太郎は、この大学で出会った仲間から、大きな影響力をもらうことになるのである。(続く)

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2010年9月16日 (木)

再出発のとき。りお太郎は、やっと歩きだすことができた。

このブログの更新は1年ぶりになります。

前に書いた記事を読み返すと、なんだかとても懐かしい感じ。

昨年の9月から1年のあいだ、自分にはいろいろのことがあった。

長い間過ごした妙高と、国際自然環境アウトドア専門学校から今は離れてしまっている。

このブログでは、言ってみればi-nacでの日々を書き綴ってきたわけで、まさかこんなに急展開で、全く別の環境に移ることになるとは想像していなかった。今年の3月下旬に転居を終え、4月からは新しい職場でスタートをきった。そして、仕事にあたふたしながら、数ヶ月があっというまに過ぎ、この時期になって気持ちも落ち着いてきたので、ブログを再開することにしたのである。

これから、i-nacの立ち上げ当時のことや、今年の3月にi-nacの担任として受け持った最後の学生たちと一緒に卒業するまでのことを、いろいろとブログで書いていこうと思う。そして、まだモヤモヤはありながらも、今後の夢や、その目標達成にむけての挑戦について、今現在の自身の胸のうちをブログで書き出していきたい。

i-nacの日々は、かけがえのない貴重な経験であり、それをじっくりふりかえることによって、これからの人生の糧にできるはずである。

この8年間には、語りつくせないほどの思い出が詰まっており、りお太郎しか体験できなかった、エキサイティングでドラマチック、そして特殊な時間であったことは間違いない。

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2009年9月 3日 (木)

りお太郎の転機となった出来事 ②

りお太郎の大学があったコロラド州の山奥から、オレゴン州のポートランドまでは約3,000km。このくらいの距離を車で移動することは、アメリカでは当たり前で、それまでにも休暇中に何回か往復したことがあった。

大学の単位のほとんどを修了し、あとは研修生として働くことでインターンシップの科目さえを取れば、晴れて卒業だったので、りお太郎は意気揚々としていた。そして、長いドライブに煩わしさなどはなく、前途に不安なことを何ひとつ感じていなかった。

当時の親友のひとり、オレゴン出身のネイソンがちょうど地元に帰る予定だったので、5月の授業が終わったら一緒にオレゴンにむかう約束をした。ネイソンの学部はアウトドア専攻ではなかったが、りお太郎と同様に登山や自転車が好きで、キャンプなどに頻繁に出かける仲間だったので、まっすぐ目的地にむかうはずはなかった。自然をしっかり満喫できるルートを選び、寄り道をしながら、のんびりすすんでいく旅になったのだった。

そんな楽しい旅が終盤になり、すでにオレゴン州に着き、明日からはポートランドで研修生としての仕事に備えようかなと考えているときに、そののちに、りお太郎の人生を大きく変えることになる事件がはじまるのである。

りお太郎はネイソンと、彼と仲のよかった同級生の女の子と3人で、レイクビューという町のはずれでキャンプをしていた。オレゴンのすごく詳細の地図を見なければ載っていないような小さな町で、多分人口は2,000人くらいだろう。そのレイクビュー滞在の朝に、りお太郎の運命の日が訪れる。

前の晩は、けっこう夜遅くまで起きていた。りお太郎がギターを弾き、ネイソンの彼女候補の女の子が歌い、火を囲んでの楽しい時間だった。いつものように登山用コンロでパスタを作り、ネイソンは酒を飲んでいた。りお太郎は飲まなかったが、お腹の調子があまりよくなかったのにもかかわらず、たくさん食材があったので、かなりの量をガツガツ食べたと記憶している。

朝、ものすごい激痛で目が覚めた。少しのあいだテントの中でじっとして、腹痛が治まるのを待ったが、傷みはおさまるどころか激しくなるばかりだった。お腹をさすると下腹部にはハリがあった。胃腸が弱く下痢をしやすいりお太郎は、食べ過ぎたりして頻繁にハライタになるので、これがトイレにいけばスッキリ直る腹痛ではなく、何かはよく分からないが、痛み方がヤバ過ぎると感じた。そして、中学生のとき盲腸になり、病院で注射を打ち薬でちらして手術を回避したことを思い出した。まさか、また盲腸に・・・・そう思ったら、ネイ!ゲラップ(ネイソン、起きろよ!)と叫んでいた。

つづく

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2009年7月13日 (月)

りお太郎の転機となった出来事 ①

今から11年前、1998年は自分にとって転機となった年だった。大学の4年生だったので、いちおう卒業にむけて、就職活動らしいことを行い、アメリカの大学の年度末にあたる5月までに進路を決めていた。

コロラド州の山奥に4年間住んだので、大学を卒業したらちょっとした都会で暮らしてみるのも悪くないと思っていた。そんなりお太郎が、アメリカで一番馴染みのあるオレゴン州のポートランドで仕事を見つけることができたのは幸運だったといえる。

就職活動にあたっては、他のアメリカ学生を差し置いて、わざわざ自分を雇ってくれる企業があるとは到底思えなかったが、もし自分にチャンスがあるとしたら、それは日本人で日本語を話せるという優位性を活かすしかないと気がついたのである。大学の先生からも、外国人学生に就労ビザが発行されるように、手続きと手間をかけてくれる企業は極めて少ないだろうから、就職先は日系企業に絞った方が良いと言われたことを記憶している。

ポートランドは当時、アメリカ西海岸において日本人に人気がある町だった。あまりにも定番化していたロスやサンフランシスコに飽きた人が、アメリカ北西部のシアトルやオレゴンを訪れはじめており、特にオレゴン州のポートランドは物価が安い地方都市なのにくわえて消費税がないことと、人気スポーツブランドのナイキやコロンビアの本社があるため、日本人好みのショップが多くあったのである。

そのポートランドにある観光地のひとつがOMSI(Oregon Museum of Science and Industry)という科学博物館で、そこではアメリカ産業に関連した展示物があり、例えば本物の潜水艦の中に入れたり、デカいプラネタリウムとかがあり、その他にも多くのイベントが開催される場所だ。日本のガイドブックにも小さく紹介されているようなところなので、りお太郎は日本人観光客の対応なら、パーフェクトにできますよ、と履歴書を送りつけたところ、5月からすぐに研修生としてウチに来なさいと、OMSI側から連絡があった。研修期間で仕事ができそうだと分かれば、正社員として雇い入れるつもりだという通達で、正社員としての給与や待遇まできちんと載っているような書類がゴソっと入った封筒が届いたのだった。

大学の先生は信じられないという顔で、これはワンダフルだ。リオはラッキーだ。などと言って喜んでくれたし、就職が決まらない仲間たちは、オーマイガッ!と頭をかかえて悔しそうにしているので、りお太郎はすぐにその気になった。高校からアメリカに8年も滞在し、とても自慢できるような成績ではなかったが、なんとか大学を卒業できそうだし、語学力に関しては全然頼りない自分ではあったが、とにかくアメリカで仕事が手に入りそうなのだ。おれ、がんばったな~と少しばかり誇らしい気分に浸ることができた。しかし、この先にはものスゴイ出来事が待っていることを、りお太郎は予測することすらできなかった。1998年はとにかく長い長い1年になるのだった。

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2009年5月 5日 (火)

メキシコが好きになった夜

メキシコが大変なことになっている。これ以上感染者が増えないことを願うばかりだが、何にしてもメキシコから離れ、世界各地に滞在しているメキシコ人の方々が、不当な扱いを受けているというニュースを見ると、とにかく悲しい。

りお太郎がメキシコを最初に訪れたのは19歳のときで、それ以後にも2回訪問している。言葉がほとんどできない外国人にも、メキシコの人たちは温かく接してくれた。自分にとって、良い思い出ばかりしかないメキシコで、今どのような状況になっているのかを想像することすら難しい。

もう15年くらい前になるが、りお太郎は大学の“授業”の一環で、メキシコのバハ・カリフォルニア半島に来ていた。大学で“アウトドア”を専攻していたので、これも実習というわけで、温暖で美しい海が広がるバハで、シーカヤックを漕いでいたのである。天気はいつもすこぶる良好で、カヤックの横をイルカが飛び跳ねる中、穏やかな海を巡り無人島を探検するという、ほんとに最高の授業が展開されていたのだった。

その実習には20人くらいの学生で来ていたが、昼間の“授業”ではアウトドア活動に専念し、探究心、冒険心を追及しながら、一致団結で真面目な取り組みを見せていたが、我々はメキシコの実習における夜の部にも、エネルギーを注ぐことを怠らなかった。大学の実習なので、お酒はご法度になっているし、アウトドアの勉強をしている身なので、宿に泊らせてもらえるはずもなく、ビーチにテントを張り野外泊の実習だった。それはそれでかまわないのだが、探究心と冒険心に満ち溢れているため、夜抜け出して町に繰り出したい欲望を抑えることができなかった。

りお太郎は仲間に連れられて、バーで“パシフィコ(太平洋)”というビールを浴びるほど飲み、フィッシュ・タコス(魚のフライを巻いたタコス)をたらふく食べた。ほろ酔いになったダメ学生たちは、町をねり歩くうちに、あまり治安の良くない場所に潜入してしまうのである。ここで、ギャングのような連中に身ぐるみ全部盗られるようなことになってしまえば、せっかくのメキシコの実習も台無しになるのだが、りお太郎を除けば、全員がカラダのデカいアメリカ人たちだったので、みんな怖いもの知らずのようだった。

町の賑やかな通りをはずれて、奥に一歩入れば雰囲気はガラリと変わった。昼間の眩しいような空と青い海からは想像できないほど、暗くて貧しい生活がそこにはあった。崩れかかっているような家にも、ちゃんと生活があり、不自由していないように見えた陽気なメキシコ人たちの現実を目のあたりにしたのだった。広場では子どもたちが裸足でサッカーに夢中になり、泥まみれになっていたが、その姿はアメリカの恵まれた子どもたちと比べると、あまりに違い過ぎた。

仲間のアメリカ学生たちは言葉を失い、一気に酔いが醒めたようだった。りお太郎も、わけの分からない罪悪感を味わいながら、いち早くテントに戻りたい気持ちになった。しかし、そこで退散してしまえば、自分たちがメキシコの人たちとは違う世界から来た人間だと認め、別々の国だから現実はどうしようもないのだと納得してしまっているようで、とにかくやるせなかっただろう。そこで、仲間のひとりがスペイン語で子どもたちにむかって、“サッカーに入れてくれ!”と頼んだ。あまり乗り気でなかったようだが、無理やり混ぜてもらい、勝手にチーム分けまで始めたものだから、仕方なく子どもたちは受け入れてくれた。アメリカ・メキシコ混合チームのゲームは、圧倒的にメキシカン・プレーヤーの優勢で進んだ。アメリカ人は基本的にサッカーが苦手なやつが多いのだが、子どもたちの技術の前に、散々な有様だった。その中で比較的善戦したのは、りお太郎だったのである。任されたポジションはキーパーで、体を張って鉄壁の守りを見せた。終了後、チームメイトの子どもからは、メキシコ人名キーパーとして当時人気があった“ホルヘ・カンポス”のようだと賞賛された。

お互い泥だらけになれば、心は通じる。外国人観光客という、地元にとってお金を落としてもらいたいだけの存在なのかもしれないが、一緒に交わりたいという気持ちと、言葉は通ぜずとも、カラダ同士で対話したいという思いを見せることで、最後には笑顔で握手を交わすことにつながった。

りお太郎にとって、メキシコの大自然とのふれあいも大切な経験になったが、暗い中でサッカーボールを追いかけながら嗅いだ土の匂いと、子どもたちに蹴られたときのカラダの痛みは、忘れられない独特な記憶として鮮明に残っている。

遠い日本から、りお太郎はメキシコをずっと応援している。

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2009年4月 6日 (月)

(前回の続き) 富士山に感謝するとき

海外旅行に行くと、日本と違う景色は新鮮だし、町並みや自然がとても美しく見える。日本の典型的な都会の風景などと比較して、海外が羨ましくなることもあるだろう。しかし、何年か海外に滞在していると、日本的な景色が恋しくなるときは、日本人ならば誰にでもあると思う。富士山がある風景というのは、まるでパンフレットの表紙、あるいは銭湯の壁みたいで、俗っぽい気がするが、それが間違いなく日本らしい景色のひとつだということには変わりない。

アメリカから4年ぶりくらいに一時帰国した際、りお太郎は飛行機の窓から見えた富士山に、いたく感動した。一定の期間、遠いところにいると、離れてしまっている間に自分の知っている日本が無くなってしまうこと、もしくは風景がまるっきり変わってしまうことを妄想するのである。現実では、もちろん日本が無くなるはずがないし、わずか数年でそんなに大きな変化があるわけでもない。しかし、それを頭で分かっていても、やたら不安になって日本の存在を遠く感じてしまうのだ。広い太平洋を飛んできて、地平線の上に富士山が現れたとき、にわかにそれが信じられなかった。ホントに不思議な気分だったが、沈む夕日をバックに、あの独特のシルエットが明らかに富士山以外のなにものでもないことに気付いたとき、日本が無くなっていなかったことで、嬉しさと安堵感がこみあげてきたのだった。

ひとりでボロボロ泣きながら、窓に顔を押し当て食い入るように、外を眺めている姿は、まるで異常者のようだが、ある意味そのとおりで、精神的に不安定、なおかつ異常なくらいホームシックにかかっているわけで、重症な病人とも言えた。しかし、そのとき、まだ日本に到着する前から、やたら満足することができて、これからも海外で頑張ってみようと決心を固めることもできたのだった。富士山によって、励まされ、勇気づけられ、日本にいなくても俺は大丈夫、なんとかやっていけるに違いないと確信が持てた。なによりも、富士山のように3776(みななろう)という標高3776mの山の尊き教えを思い返すことができた。

静岡の出張で、別に期待していたわけでもなかったが、眼前に富士山がひろがり、その姿は紛れもなく、りお太郎が愛してやまない、素晴らしき日本の山そのものだった。そして、いろいろあるにせよ、まだまだ頑張っていかなくてはならないと、自分自身を励ますことにもつながる結果となった。これから歳をかさねていっても、繰り返し富士山に励まされながら生きていくことになりそうな予感がしている。

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