2009年7月13日 (月)

りお太郎の転機となった出来事 ①

今から11年前、1998年は自分にとって転機となった年だった。大学の4年生だったので、いちおう卒業にむけて、就職活動らしいことを行い、アメリカの大学の年度末にあたる5月までに進路も決めることができていた。

コロラド州の山奥に4年間住んだので、大学を卒業したらちょっとした都会で暮らしてみるのも悪くないと思っていた。そんなりお太郎が、アメリカで一番馴染みのあるオレゴン州のポートランドで仕事を見つけることができたのは幸運だったといえる。

就職活動にあたっては、他のアメリカ学生を差し置いて、わざわざ自分を雇ってくれる企業があるとは到底思えなかったが、もし自分にチャンスがあるとしたら、それは日本人で日本語を話せるという優位性を活かすしかないと気がついたのである。大学の先生からも、外国人学生に就労ビザが発行されるように、手続きと手間をかけてくれる企業は極めて少ないだろうから、就職先は日系企業に絞った方が良いと言われたことを記憶している。

ポートランドは当時、アメリカ西海岸において日本人に人気がある町だった。あまりにも定番化していたロスやサンフランシスコに飽きた人が、アメリカ北西部のシアトルやオレゴンを訪れはじめており、特にオレゴン州のポートランドは物価が安い地方都市なのにくわえて消費税がないことと、人気スポーツブランドのナイキやアディダスの本社があるため、日本人好みのショップが多くあったのである。

そのポートランドにある観光地のひとつがOMSI(Oregon Museum of Science and Industry)という科学博物館で、そこではアメリカ産業に関連した展示物があり、例えば本物の潜水艦の中に入ってみれたり、でかいプラネタリウムとかがあり、その他にも多くのイベントが開催される場所なのだ。日本のガイドブックにも小さく紹介されているようなところなので、りお太郎は日本人観光客の対応なら、パーフェクトにできますよ、と履歴書を送りつけたところ、5月からすぐに研修生としてウチに来なさいと、OMSI側から連絡があった。研修期間で仕事ができそうだと分かれば、正社員として雇い入れるつもりだという通達で、正社員での給与や待遇まできちんと載っている書類がゴソっと届いたのだった。

大学の先生は信じられないという顔で、これはワンダフルだ。リオはラッキーだ。などと言って喜んでくれたし、就職が決まらない仲間たちは、オーマイガッ!と頭をかかえて悔しそうにしているので、りお太郎はすぐにその気になった。高校からアメリカに8年も滞在し、とても自慢できるような成績ではなかったが、なんとか大学を卒業できそうだし、語学力も全然頼りない自分ではあったが、とにかくアメリカで仕事が手に入りそうなのだ。おれ、がんばったな~と少しばかり誇らしい気分に浸っていた。しかし、この先にはものスゴイ出来事が待っていることを、りお太郎は予測することすらできなかった。1998年はとにかく長い長い1年になるのだった。

| | コメント (0)

2009年5月 5日 (火)

メキシコが好きになった夜

メキシコが大変なことになっている。これ以上感染者が増えないことを願うばかりだが、何にしてもメキシコから離れ、世界各地に滞在しているメキシコ人の方々が、不当な扱いを受けているというニュースを見ると、とにかく悲しい。

りお太郎がメキシコを最初に訪れたのは19歳のときで、それ以後にも2回訪問している。言葉がほとんどできない外国人にも、メキシコの人たちは温かく接してくれた。自分にとって、良い思い出ばかりしかないメキシコで、今どのような状況になっているのかを想像することすら難しい。

もう15年くらい前になるが、りお太郎は大学の“授業”の一環で、メキシコのバハ・カリフォルニア半島に来ていた。アウトドアを専攻していたので、これも実習というわけで、温暖で美しい海が広がるバハで、シーカヤックを漕いでいたのである。天気はいつもすこぶる良好で、カヤックの横をイルカが飛び跳ねる中、穏やかな海を巡り無人島を探検するという、ほんとに最高の授業が展開されていたのだった。

その実習には20人くらいの学生で来ていたが、昼間の“授業”ではアウトドア活動に専念し、探究心、冒険心を追及しながら、一致団結で真面目な取り組みを見せていたが、我々はメキシコの実習における夜の部にも、エネルギーを注ぐことを怠らなかった。大学の実習なので、お酒はご法度になっているし、アウトドアの勉強をしている身なので、宿に泊らせてもらえるはずもなく、ビーチにテントを張り野外泊の実習だった。それはそれでかまわないのだが、探究心と冒険心に満ち溢れているため、夜抜け出して町に繰り出したい欲望を抑えることができなかった。

りお太郎は仲間に連れられて、バーで“パシフィコ(太平洋)”というビールを浴びるほど飲み、フィッシュ・タコス(魚のフライを巻いたタコス)をたらふく食べた。ほろ酔いになったダメ学生たちは、町をねり歩くうちに、あまり治安の良くない場所に潜入してしまうのである。ここで、ギャングのような連中に身ぐるみ全部盗られるようなことになってしまえば、せっかくのメキシコの実習も台無しになるのだが、りお太郎を除けば、全員がカラダのデカいアメリカ人たちだったので、みんな怖いもの知らずのようだった。

町の賑やかな通りをはずれて、奥に一歩入れば雰囲気はガラリと変わった。昼間の眩しいような空と青い海からは想像できないほど、暗くて貧しい生活がそこにはあった。崩れかかっているような家にも、ちゃんと生活があり、不自由していないように見えた陽気なメキシコ人たちの現実を目のあたりにしたのだった。広場では子どもたちが裸足でサッカーに夢中になり、泥まみれになっていたが、その姿はアメリカの恵まれた子どもたちと比べると、あまりに違い過ぎた。

仲間のアメリカ学生たちは言葉を失い、一気に酔いが醒めたようだった。りお太郎も、わけの分からない罪悪感を味わいながら、いち早くテントに戻りたい気持ちになった。しかし、そこで退散してしまえば、自分たちがメキシコの人たちとは違う世界から来た人間だと認め、別々の国だから現実はどうしようもないのだと納得してしまっているようで、とにかくやるせなかっただろう。そこで、仲間のひとりがスペイン語で子どもたちにむかって、“サッカーに入れてくれ!”と頼んだ。あまり乗り気でなかったようだが、無理やり混ぜてもらい、勝手にチーム分けまで始めたものだから、仕方なく子どもたちは受け入れてくれた。アメリカ・メキシコ混合チームのゲームは、圧倒的にメキシカン・プレーヤーの優勢で進んだ。アメリカ人は基本的にサッカーが苦手なやつが多いのだが、子どもたちの技術の前に、散々な有様だった。その中で比較的善戦したのは、りお太郎だったのである。任されたポジションはキーパーで、体を張って鉄壁の守りを見せた。終了後、チームメイトの子どもからは、メキシコ人名キーパーとして当時人気があった“ホルヘ・カンポス”のようだと賞賛された。

お互い泥だらけになれば、心は通じる。外国人観光客という、地元にとってお金を落としてもらいたいだけの存在なのかもしれないが、一緒に交わりたいという気持ちと、言葉は通わずとも、カラダ同士で対話したいという思いを見せることで、最後には笑顔で握手を交わすことにつながった。

りお太郎にとって、メキシコの大自然とのふれあいも大切な経験になったが、暗い中でサッカーボールを追いかけながら嗅いだ土の匂いと、子どもたちに蹴られたときのカラダの痛みは、忘れられない独特な記憶として鮮明に残っている。

遠い日本から、りお太郎はメキシコをずっと応援している。

| | コメント (0)

2009年4月 6日 (月)

(前回の続き) 富士山に感謝するとき

海外旅行に行くと、日本と違う景色は新鮮だし、町並みや自然がとても美しく見える。日本の典型的な都会の風景などと比較して、海外が羨ましくなることもあるだろう。しかし、何年か海外に滞在していると、日本的な景色が恋しくなるときが、日本人ならば誰にでもあると思う。富士山がある風景というのは、まるでパンフレットの表紙、あるいは銭湯の壁みたいで、俗っぽい気がするが、それが間違いなく日本らしい景色のひとつに変わりはない。

アメリカから4年ぶりくらいに一時帰国した際、りお太郎は飛行機の窓から見えた富士山に、いたく感動した。一定の期間、遠いところにいってしまっていると、離れている間に自分の知っている日本が無くなってしまうこと、もしくは風景がまるっきり変わっていることを妄想するのである。現実では、もちろん日本が無くなるはずがないし、わずか数年でそんなに大きな変化があるわけでもない。しかし、それを頭で分かっていても、やたら不安になって日本の存在を遠く感じてしまうのだ。広い太平洋を飛んできて、地平線の上に富士山が現れたとき、にわかにそれが信じられなかった。ホントに不思議な気分だったが、沈む夕日をバックに、あの独特のシルエットが明らかに富士山以外のなにものでもないことに気付いたとき、日本が無くなっていなかったことで、嬉しさと安堵感がこみあげてきたのだった。

ひとりでボロボロ泣きながら、窓に顔を押し当て食い入るように、外を眺めている姿は、まるで異常者のようだが、ある意味そのとおりで、精神的に不安定、なおかつ異常なくらいホームシックにかかっているので、重症な病人とも言えた。しかし、そのとき、まだ日本に到着してさえいなかったのに、やたら満足することができて、これからも海外で頑張ってみようと決心を固めることもできたのだった。富士山によって、励まされ、勇気づけられ、日本にいなくても俺は大丈夫、なんとかやっていけるに違いないと確信が持てた。なによりも、富士山のように3776(みななろう)という標高3776mの山の尊き教えを思い返すことができた。

静岡の出張で、別に期待していたわけでもなかったが、眼前に富士山がひろがり、その姿は紛れもなく、りお太郎が愛してやまない、素晴らしき日本の山そのものだった。そして、いろいろあるにせよ、まだまだ頑張っていかなくてはならないと、自分自身を励ますことにもつながる結果となった。これから歳をかさねていっても、繰り返し富士山に励まされながら生きていきそうな予感がしている。

| | コメント (0)

2009年4月 1日 (水)

りお太郎の、富士山への想い

この間、仕事で静岡に行ってきた時のことだ。新幹線から窓の外を眺めていると、茶畑のむこうに富士山が見えた。乗り心地が良い席で、ボーッとしながらふんぞり返っていたのだが、雪を半分まとった美しい富士山が現れたことで、寝ぼけていた目が覚めたのだった。 

富士山の姿に、思わず背筋を伸ばして見入ってしまう自分は、やはり山が好きなのだと思う。そして、山にむかって心の中で話しかけていたりする自分自身に気付くと、山好きどころか、山キチガイなのだなと感じてしまう。これから、どうしたら良いのでしょうかね?富士山なら、そんな問いに何かしらの答えを持っていそうな気がしてしまうほど、日本一の山は偉大なオーラに包まれている。 

さて、静岡とはまるっきり反対にある、裏日本、新潟に住んでいる自分には決して身近な山とは言えないが、登山をやっていれば、山の上から富士山を探してしまうのは、ごく自然なことだ。最近は、南アルプスや八ヶ岳に登ったが、天候が良かったので、富士山は圧倒的な存在感を持って聳え立っていた。遠く離れた新潟県にいても、富士山が望めることは度々あり、妙高山の山頂に立った際に、地平線の上に頭が出ていたことが数回ある。そんなときは、ラッキーだなと思うし、日本に富士山があって良かったなと感謝したくなるのである。 

登山とは関係ない話になるが、富士山の姿を見て、感動して涙したときのことを思い出したので、それについて書きたい。随分と前、飛行機の機内から富士山を見つけたことがあった。アメリカから成田にむかう便は、今も昔もそうなのだけど、だいたいアメリカを午前中に出発し、日付変更線をまたいで日本の夕方に着くことになっている。10時間オーバーのフライトなので、せまいエコノミークラスで楽しい時間を過ごすことは困難だ。しかし、自分が何年か海外に滞在した後に、日本に一時的ではあるにせよ、帰国の途にあるフライトであれば、少しばかり窮屈であっても、浮き浮きした気持ちになれるに違いない。長い道のりも、その先に故郷が待っているのであれば、苦にならない。まさに、自分自身がそんな状況にあったときのことだ。まだ10代の頃の話である。(次回に続く)

| | コメント (0)

2008年12月 4日 (木)

アメリカでの父親 続

オレゴンからアリゾナ州にあるグランドキャニオン国立公園までは遠い。正確にどのくらいの距離があるかは、ちゃんと調べなくては分からんが、おおよそ青森から鹿児島といったぐらいか?スコットの“グランドキャニオン旅行”では、キャンピングカーを使い、陸路をひたすら移動する。学校主催の研修でありながら、宿泊先などは無い。とりあえず屋根のある建物に2週間ほどは全く縁がなくて、車内もしくは野外のテント内での寝袋泊が基本だった。今思い出してみると、事前にスコットが行く先々のキャンプ場を予約していることはなかったようだ。とりあえずちょうど良い時間に、今日はここで泊る。というスコットの判断が下されていた。泊る場所はキャンプ場のときもあり、ハイウェイの休憩所、どっかの広い駐車場、あるいは荒野のド真ん中だったこともあったと記憶している。まさに行きあたりばったりの旅だ。

スコットの計画のもとでは、グランドキャニオンまでの道のりは、最短距離で楽なルートになるはずはなかった。そこでは、マニアックな田舎道が使われていたり、大都会をわざわざ突き抜けてみていたりして、山や谷を越え、さらに無駄に迂回し、とにかく寄り道が多かった。“グランドキャニオン旅行”という名目なのに、りお太郎はハリウッドやディズニーランド、サンフランシスコの中華街やゴールデンゲートブリッジ、ラスベガスのカジノやシエラ山脈、モハベ砂漠にデス・バレー(死の谷)といったアメリカ西部のありとあらゆる名所に、望む望まない関係なくスコットに連れていかれた。実際、最終目的地がグランドキャニオンになっているだけで、そこでは2日間くらいしか滞在せずに、すぐにまたオレゴンにとんぼ返りするという、移動ばかりする超過密日程旅行だった。

こんな研修旅行だから、何かハプニングが起きないはずがない。りお太郎は“グランドキャニオン旅行”に2回参加した実績を持つ経験者、というか物好きなのだが、ホントいろいろあった。都会では必ずといってよいほど、誰かが迷子になった。当時のアメリカでは携帯電話などまだ無かったから、はぐれてしまった人はもとの場所に自力で戻るしかないし、他のみんなはひたすら待つことしかできない。また、レンタカーのキャンピングカーは頻繁に故障した。やはりアメリカ車はダメである。最も印象深いのは、かの有名な“死の谷”で足止めを食ったときのことである。あそこはつねに気温が40度を越える、恐ろしいほど熱くて乾燥した土地である。ちょっと通過するぐらいの予定が3日間とか滞在するハメになった。そのとき、りお太郎には火傷のような日焼けと“死の谷”にもう2度と訪問する必要がないくらい景色を目に焼き付けることができた。

数々の試練と、長い長い道のりの末、最終的にやっとグランドキャニオンにたどり着く。それは感動的な瞬間になる。一緒にいた仲間には涙を流すものもいた。そして、スコットに渓谷の中を歩きなさいと言われ、何も分からないまま、標高差1,000mの谷底に下ってしまい、登り返すのにめちゃめちゃシンドイ思いをして、少しグランドキャニオンを嫌いになるのである。この研修で何を学ぶのか、それをスコットに聞く学生はいなかった。ひとりひとりの感じ方は違っても、つらいこと以上に楽しみや達成感があった。大自然に触れられて、あわせて忍耐力も身につけることができた。あと、旅が好きになった。仲間がもっと大事になった。アメリカが好きになった。

スコットはどこか押し付けがましいところもあったが、アメリカ人らしい自由な発想も持っていて、いろんなことに興味があり、とにかく、いろんなことをやってみることが大切なことだという考え方だったような気がする。学ぶということ、経験値を上げること、知識を増やすこと、成長すること、思い出をつくること、すべて何か行動を起こして、はじめて得られるものである。りお太郎がアメリカに来て、英語ができずにウジウジしながら、何をやるにも遠慮していたり、自分には無理だとあきらめてしまうことが多かったのを、少しずつ変えてくれたのはスコットなのだろう。これこそがアメリカの開拓精神、チャレンジ・スピリットなのかな?

スコットとグランドキャニオンに行ってから、りお太郎はひとりでたくさん旅をしている。世界各地をアホみたいに動き回って、危険な目にもあったし、失敗もたくさんあった。山で死にかけたこともあった。それでも、たとえ一貫性がなくとも、貪欲にいろいろ見てやろうとしてきたことがすべて糧になっていると思う。今の自分があるのは、そういった経験のおかげで、これから先も、たとえどんなに迷走しても、立ち止まらずに進んでいきたい。

いつかアメリカで、今度は自分がスコットを連れまわして、どこか旅をしてみたいと思うのである。

| | コメント (0)

2008年11月 8日 (土)

アウトドアを教えてくれた人 ② アメリカでの父親、スコット

アメリカの新しい大統領が決まった。りお太郎には経済や政治のことはよく分からないが、新大統領は今こそが変革期だと言っている。とりあえず、アメリカが戦争大国のようなイメージから脱却し、もっと親しみやすい明るい国になってほしいと思う。

さて、以前にも少し紹介したが、りお太郎がアメリカで生活していたときに影響をもらった、というよりはお世話になった先生のひとり、スコットについて話をしたい。りお太郎の中では、今もなお、オバマよりもカリスマ性があり、その意思の固さと行動力によって、大きな憧れをいだかせてくれる人物のひとりである。

15歳のとき、りお太郎はオレゴンの全寮制の高校に入学した。その高校におけるFAという立場にいたのがスコットだった。各学生に必ずひとりずつFAの先生がついてくれた。FAはファクリティ・アドバイザー、言ってみれば親代わりのようなもので、語学力が乏しい留学生にしてみれば、生活指導のみならず、身近な話し相手になってくれる存在であった。

スコットはたまに週末に、外食に誘ってくれて、おいしい料理を食べさせてくれた。(奢ってくれるわけでなく、自分のこづかいで支払わされた)高校には他にも留学生がたくさんいたが、スコットがFAだったことによって与かれる恩恵が、他のFAを持つ学生たちより多いように感じられたのは、ふたりの会話があまりはずむことがないにもかかわらず、よく学校の外に連れ出してくれたからだった。しかし授業になるとスコットは厳しい先生であり、無理難題を宿題にして容赦なく学生たちに課していたので、けっこう疎まれていた。りお太郎もそれによってかなり痛い思いをしたものだ。

言葉の壁によって、高校生活はけっこうシンドイものだったが、スコットのおかげで少なくとも誰かに面倒を見てもらっているという安心感はあったし、いくつかの楽しみも彼のおかげで見つけることができた。彼と接点があったことによって経験できたことがいくつかあり、特に感謝しているのは、スコットにグランドキャニオンに連れていってもらったことである。

他の先生たちはやっていなかったが、学校が長期の休みの間、スコットひとりで積極的に担当していたのが、“グランドキャニオン・トリップ”という研修旅行だった。毎年の春休み、スコットの企画のもとで、自由参加の旅行のようなものが組まれ、彼は自分自身の休暇を使って学生たちを連れまわすのだった。多分本人もほとんど仕事という位置づけでやっておらず、自分の楽しみとして取り組んでいたように思える。その内容にしても研修というより“旅”に近いもので、彼の趣味や希望が大きく反映されていて、スコットと価値観が合えば楽しめるし、そうでなければひたすら振り回されて、疲れる旅行となるのである。

実は、このスコットの研修こそ、りお太郎がI-nacで担当している“アメリカ研修”のお手本になっているものなのである。

この旅がどのようなものだったかを、次回紹介していきます。

| | コメント (0)

2008年10月30日 (木)

アウトドアを教えてくれた人 ① chiyako先生

先生、疲れていますね。とよく言われる。たまに、がんばって下さい。応援されているというよりは同情されているような言葉をかけられることさえある。りお太郎は別に病気でもないし、そこまで不幸なわけでもないと思う。あまり認めたくないが、実際のところ、いつも覇気の無い顔をしているのだろう。いちおう先生という立場にいながら、ずいぶん情けないものである。しかし、疲れているということは否めないことも事実だ。

8月のスイスへの登山遠征にはじまり、9月にもアメリカに2週間滞在してハードな活動を行っているし、10月に入ってからも約2週間にわたる登山中心とした実習があり、その引率でずっと山にいた。最近も立て続けに登山に出かけている。明日、明後日も登山に行く予定だ。一般のサラリーマンと比較して、家にいる時間はかなり短いのではないかと思う。職場にはちゃんと自分の机があり、そこでパソコンにむかって片付けなくてはならない仕事がたまっているが、書類の山と登山用品がごちゃまぜに積まれ、手がつけられない有様である。

りお太郎は、この現状に多少の危機感を持つときがあるが、基本的には満足しているのである。なぜならば、りお太郎は密かに目指しているものがあるからだ。あまりエラそうなことは言えないが、それは“日本一山に登っている先生”という称号をいただくことにある。休日に個人的な山行に出かけることは少ないけれど、仕事(授業)として山に行く回数ならば、すでに全国ナンバーワンに近いところにいるかもしれない。

この大きな野望を叶えるためには、立ち向かわなくてはならない相手がいる。それが、今回のタイトルに入っているchiyako先生、その人である。日本300名山全山の登頂を記録しており、ヨーロッパアルプス最高峰のモンブランも難なく落としているし、数々のエピソードと武勇伝によって光り輝いているベテラン登山家で、小学校教諭でもある。りお太郎は小学校56年次に担任として受け持たれて、いろいろな影響をもらった。この先生こそが、山に引きずりこんでくれた張本人であり、かつ大事な大事な恩師でもあるのだ。

chiyako先生はいつも夫婦で山に登っているのだが、山で雷に遭ったとき、苦楽をともにしている大事なパートナーとの絆の証である結婚指輪を投げ捨てて、自分の身を守ったという話がある。雷を回避する方法として、まず身につけていた金属類をはずすことが思いついたそうで、冷静な判断だったと笑いながら教えてくれた。それで明らかなように、とにかく登山にかける思いは強い。もう20年も経つので、先生にどんな授業をしてもらったか、記憶が薄くなっていることは仕方がないにせよ、りお太郎は先生が山の話を教室で熱く語っていたことをかなり鮮明に思い出すことができる。教育熱心の先生は他にもいたのだろうが、教師としての仕事以外にも、情熱を持って真剣に取り組んでいる先生に、りお太郎は子どもながらにせよ感心もしたし、好感を持った。

この間、スイスでマッターホルンに登った。しかもガイドをつけずに登頂したという自慢を手紙に書いた。先生から、少し悔しそうな文面で返信があり、すぐに自分も登りにいくだろうということが書いてあった。chiyako先生はきっと、本当にそうするつもりだろう。だから、りお太郎も、またすぐに海外の山へ登りにいかないと、せっかく一歩リードした立場もあやうくなってしまう。

いまだに不安に思うことがある。それは、たいした人生経験もないし、教師という立場にいるものとしては、指導力も影響力も甚だ頼りない自分が、ノウノウと先生とか呼ばれていても良いのだろうかということである。いつも伝えたいことを伝えきれていないというもどかしさを感じている。元気出してよと、まるで友達のように学生から声をかけてもらっていることで分かるように、威厳もへったくれもないのだ。ただ、りお太郎も一生懸命になって学生たちと共にアウトドアで活動を行っているし、学生たちを前にして、長い講釈を頻繁に試みてはいる。これがみんなにとって何か影響を受けられるものなのかは、正直自信は無い。

chiyako先生が担任だったとき、学級には40人以上いたはずである。今でもその何人かと親交があるが、そのうち今現在、先生からの影響で山に打ち込んでいるのは、りお太郎ただひとりであろう。それはほぼ間違いない。あの、英雄chiyako先生でさえ、40分の1という低い確率でしか、教え子を動かすことができなかった。この事実は、りお太郎を少しだけ安心させてくれる。

今、登山の魅力について熱く語っている自分がいる。すでに山が大好きな学生もいて、彼らには今更りお太郎の影響力があるはずがない。しかし、それ以外にひとりでもふたりでも、りお太郎を通して山の素晴らしさを知ってもらえたらそれは嬉しいことだ。chiyako先生と比べてまるでダメな自分だが、いったい何人に対して心に響くような言葉をかけることができるだろう?しかし40人にひとりは無理でも、以外に60人にひとりくらいなら、ひょっとして可能かもしれない。とりあえず、それでも良しという気構えで、がんばらなくてはならないと思うのである。今はそんなこと考えながら自分自身を励ましています。

多少疲れているにせよ、りお太郎の山に対しての情熱はまだちっとも冷めていないことだけは間違いない。その点で、感謝すべき人はchiyako先生だろう。

chiyako先生、40人のひとりに僕を選んでくれてありがとう!!

| | コメント (0)

2008年3月 2日 (日)

青い瞳に伝えたかったこと 長い補足

りお太郎は19歳のとき、フルマラソンに参加した。高校を辞める2ヶ月前のことである。

3年半通ったオレゴンの高校をちゃんと卒業するには、あともう2年くらいは必要だっただろう。ハタチになっても高校生ではいたくなかった。りお太郎の選択択には、もう大検を取得して、とっとと大学に進学するしかなかった。身近な先生もそれを勧めてくれていた。それは英語をなかなか身につけることができず、授業についていけなかったこと、また、その高校のカリキュラムに馴染めなかったことがあるが、ともかく自分自身の不甲斐なさが原因だった。

さて、オレゴン州最大の都市、ポートランドで毎年10月に開催される“ポートランドマラソン”は9,000人のランナーが走る大きなレースである。、高校にはマラソン好きの先生が何人かいて、校長先生や、料理長のトニー、親代わりの先生だったスコットの奥さんなどが、この大会に毎年のように出場していた。学生たちは無関心だったが、校長先生が参加するということもあり、これを学校への寄付を募る格好のイベントとして位置づけていたりした。学生たちは1キロに何ドルという約束をして、実際に先生が走った距離を寄付させられる。例えばトニーに2ドルを寄付をすることにすると、彼が42.195kmのフルマラソンを完走すると84ドルも取られる。これで先生たちはモチベーションを高めていたようだが、結果的に寄付したお金でトニーが作る食事の質が上がったり、目に見えて寄付したお金が有効的に使われもしないから、学生たちは冷ややかな目で見ていたものだった。

学生は誰一人と参加しないマラソン大会に、りお太郎は“走りたい”と言い出した。高校を辞めて、コロラド州の短大に進学することがちょうど決まった頃で、せめて最後に自分自身が満足できることを、ひとつでもやり遂げてみたかった。ずっとジョギングを続けていたから、フルマラソンを完走できる自信はあった。何もかも中途半端だったりお太郎にとって、自信をひとつでも持てるきっかけがほしかったのである。

初めて学生のひとりが一緒に走ることになり、いつもお祭り気分だった先生たちは色めきたった。校長先生は50歳の手前くらいだったが、エネルギッシュなことで学生から支持されており、マラソン初挑戦者などに負けることはできない。自称マラソン・マンと言っているトニーは、日本人の若造め、と闘志をむき出しにするものだから、仲間たちはリオが先生たちとどれだけ競い合えるかを少しばかり注目したのだった。

先生たちの中で、りお太郎が最も親しかったのはスコットという先生だったが、その奥さんはめちゃめちゃ元気な人だった。スコット先生は亭主関白ではなく、尻にしかれていた方だったと思うが、奥さんは毎年ポートランドマラソンを完走していた。それが、リオも走るということになったら、スコットは奥さんより、なぜか僕の方をひいきにしてくれた。You can beat her, Rio! おまえは勝てる、とか言ってくれて、わざわざ高校のロゴが入ったタンクトップを用意してくれた。ダサいなぁと思ったが、スコットにしてみれば、いつも目にかけている学生の方が、奥さんが得意としているマラソンで勝ってくれたら、優越感を感じられて気持ちが良かったのかもしれない。

まるで陸上の代表選手みたいなウェアをもらったことは、りお太郎にとって恥ずかしいことではあったが、ちょっとだけ嬉しかった。勉強においても、スポーツにおいても、また私生活においても、まったく冴えない男だった自分が、いちおう学校の看板を背負うようなかたちになったのである。朝走っているところを、窓から見ていてくれた青い瞳の子に、そのシャツを見せたいと心の中で思ってしまい、よけいに恥ずかしくなった。

初めてのフルマラソンは、さすがにきつかった。ゴールはとにかく遠い。スタートからすぐに先に行ってしまった先生たちよりも、ずっと後ろの方でマイペースで走った。途中で校長とトニーとすれ違ったが、ふたりともすこぶる調子が悪そうだった。体調が芳しくなかったようで、結局リタイヤしてしまう。逆にりお太郎は快調になってきて、スコットの奥さんも20kmくらいのあたりで抜いた。ポートランドでいちばん大きな橋、セイント・ジョン・ブリッジまでの登り坂がきつかったが、橋の上から見た山々と町並の美しさに感動した。そこでもう一度力を振り絞り、気合を入れ直して走ったが、残りの10kmはペースダウンしてしまった。もう立ち止まってしまうか歩き出したくなったが、なんとか最後まで気力で走った。

無我夢中で走りながら、朦朧とする頭の中で思い出がかけ巡っていた。

朝、校門から続く登り坂の上で彼女と会って、声をかけてもらった。それによって、どれだけ自分は元気付けられただろうか。正直なところアメリカでの生活は寂しかった。言葉が違うことによって、なにもかもが別世界にいるような気分で、いつも落ち着かず不安なことばかりだった。そんなとき、あの子は自分の存在に気づいてくれた。実力社会のアメリカにおいて、自分はなんの評価にも値しない人間で、まさに落ちこぼれだと感じていた。英語が全然分からずに下ばかり向いていたけれど、彼女にはほんの少しかもしれないが、認めてもらえたのかもしれなかった。その彼女に、面とむかって自分の気持ちを伝えることはできなかった。でも、リオという人間のことを、青い瞳の子の記憶にとどめることができないだろうか?

ボロボロになりながら、ラストスパートをかけてゴールまで懸命に走った。そんな姿を彼女は見ていない。それは、あたりまえのように分かっていたが、それでも必死になって走らずにはいられなかったのである。このマラソンがずっと毎朝あの子のことを思いながら走ってきたことの集大成のような気がしていた。

さて、いい加減この長い思い出話を終わりにします。青い瞳の子には結局告白などすることはできませんでした。でも、実は彼女は多分僕の気持ちを知っていました。彼女の親友のひとり(注:とてもおしゃべりな子)に、リオの好みの女性はどんな人かと聞かれたことがありました。それは難しい、とかなんとか言い逃れをしようとしましたが、まったく許してくれなかったので、ついにあの子の名前を出してしまったのです。そして、さんざん冷やかされた後、Why her? なんで?と問い詰められました。僕の答えは、Because, she's got beautiful eyes. とてもきれいな目をしているから、というものだったはずです。

りお太郎は先生たちの誰よりも早いタイムでゴールしたので、校長先生をはじめ、みんな面目まるつぶれでした。そこで、何よりも嬉しかったのは、あの怖いベアー先生から、Hey, you! Marathon man! おい、おまえ!マラソン・マンと親しみをこめて呼んでもらえるようになったことでした。

| | コメント (3)

2008年2月26日 (火)

青い瞳に伝えたかったこと 第3話

アメリカのスクールバスをイメージできるだろうか?あの黄色いやつである。正面が日本のバスのようにのぺっとしていなくて、まるで鼻があるようなかたちのバスだ。

高校のときのことを思い出そうとすると、そのバスがいろいろなシーンに登場する。そして、オレゴンの景色と一緒に、友達たちの顔も思い浮かべることができる。りお太郎の記憶の中では、青い瞳の女の子の顔は、あの黄色バスの中で、彼女が窓の外を見ている姿が、いちばん鮮明に思い出すことができる。黄色いバスには愛着があったし、きっとバスの中では頻繁に彼女のことを見ていたのだろう。

りお太郎がこの高校に投獄されていた頃、自由時間というのは限られていたが、夕食の後はフリーで、その時間はいつもバスケをやっていた。いちおう中学はバスケ部だったが、万年補欠だったし、ましてアメリカ人は背が高いのでまともな勝負ができるはずがなかった。しかし例のマラソン熱のおかげか、りお太郎は高校のバスケのチーム内で、ある程度の地位を得る。リオは“ハード”なディフェンスをすると定評があった。とにかく持ち前の体力で、ウザいくらい執拗に相手をマークしていただけのことだ。リバンドやシュートといったバスケットボールの華やかな部分に関しては、ほとんどあきらめていた。

青い瞳の子も、バスケのチームに所属していた。りお太郎がバーシティ(1軍)のチームにやっと入れた頃、彼女はまだ1516歳くらいだったはずだ。上級生の子たちに練習では圧倒されていたが、すばしっこい彼女のプレースタイルには、輝くものがあった。ボールをスチールするテク、相手選手からボールをいつのまにか奪ってしまうところなんかがけっこう評価されていて、小さな彼女もバーシティ・チームのひとりだった。しかし、りお太郎も青い瞳の子もスターター、いわゆる先発にはなれないのである。どちらも試合の途中の限られた時間しかプレーできない選手なのだ。ふたりはなんとなく似たような境遇だった。

冬がアメリカのバスケのシーズンで、ホームに他校をむかえたり、逆によそに遠征したりするのだが、田舎の小さい町どうしの対抗試合なので、相手の学校まで3時間とか4時間くらいかけなくてはならない。移動手段はもちろん黄色いスクールバス。シートは中のスポンジがぬけてしまっていて、お尻が痛くなるシロモノである。しかも隙間風が寒くて全然快適ではない。しかし、りお太郎にとってその時間は以外に楽しいものだった。たいして試合に出られるわけでもないのでプレッシャーもなかったし、素敵な景色を見られる上に、いつも遠征は彼女と一緒だったのである。かといって別に隣に座ったりして、話をすることなどはなかった。スポーツ好きの、うるさいくらい元気な女の子たちに交じっておしゃべりするわけでもなく、青い瞳の子はいつも静かに窓の外を見ていたような気がする。りお太郎はそれを後ろの方の席から見ていた。

リオ。そう呼ばれてふりかえると彼女がいた。ここに座ってもいい?自分たちの試合が始まる前、ひとり観覧席で他の試合を見ていたときのことだ。そんな感じで彼女の方から声をかけてもらい、ふたりっきりで肩をならべて話をしたことがあった。遠征先でのことだ。りお太郎にとって予想外のことだったし、うれしかったが、試合よりも汗が出てしまうほど緊張感があった。しかし、この上ないチャンスだったはずだ。高校から遠く離れた場所でふたりっきりの時間。仲間たちはどっかに行ってしまっている。なによりも、とてつもなく大きな目の上のたんこぶ、彼女の父親のベアー先生もいなかった。あの時、思い切って気持ちを伝えればよかったのにと思う。

しかし、それはできなかった。

好きな人に対して、イングリッシュで心のうちを伝えることなど、まだ無理な話だった。まったく自信が無い男だったし、アメリカ人とつきあうということ自体が、何のとりえもない日本人には夢物語なのだと思っていた。少しの間だったが隣に彼女が座り、ちっとも話が盛り上がらないまま時間が経ち、いよいよ彼女の試合だということで、りお太郎のそばから離れるときのことだ。冗談っぽく、Score 20 for me! 僕のために20点決めてくれ、りお太郎はそう言うのが精一杯だった。その時は自分自身の不甲斐なさが悔しくて、目に涙が浮かんでいた気がする。ホントに無力だったが、せめて言葉ができたらなぁと思った。そんなことはおかまいなく、青い瞳の子はOKと言い残し、最後にとびきりの笑顔を見せてくれた。そのことは忘れられない思い出である。どちらかというと悲しい、悔しい思い出だけど。

りお太郎は青い瞳の子に出会えたおかげで、ランニングを続けることができた。朝の光を浴びながら、オレゴンの爽快な空気の中で走れたことは、体力がついたこと以上に、ずっと価値があることだった。そして、一生懸命に英語を勉強し、しっかりとコミュニケーションがとれるようになろうと、やみくもになって努力したのも、どこかであの子のことが頭にあったからかもしれない。

彼女の記憶に、地味な日本人のことなどが印象に残っているとは思えない。それでも、りお太郎はちっともかまわない。相手はどうであろうが、自分自身にとって人との出会いは大切な思い出で、それ自体がかけがえのない財産なのだから。

| | コメント (0)

2008年1月25日 (金)

青い瞳に伝えたかったこと  彼女の父親

前回の続き。

さて、オレゴンの高校の話しの続きをする。全寮制である上に、独自のカリキュラムを持つ学校で、世界中から集まった留学生とアメリカ人とで半分ずつくらい。学生たちはユニークというか、変な連中ばかりなのだが、先生たちも当然のごとく、少しばかり変わっている個性派がそろっていた。

学生はみな、学校に住んでいるようなものなので、自然と先生との関係は深くなる。たまに学校の外に連れていってもらったりして、一時だけ刑務所生活から抜け出すことができるのだった。りお太郎にも、スコットという仲の良い先生がいて、彼のお気に入りのモンゴル料理屋によく一緒に行った。しかし、先生たちが優しくて、親しみやすいフレンドリーな人たちばかりではなかった。小心者の留学生には、とても話しかける勇気さえ出ないような、怖い先生もいたのだ。顔中ひげもじゃのうえ、プロレスラーのような体格で、泥だらけの作業着をつねに身にまとい、通称“ビッグ・ベアー”と呼ばれる用務員兼・修理屋のような先生が、まさにそういった人間のひとりだった。そしてこの人物こそ、前回の項に登場した青い瞳の子のファザー、生みの親なのだった。

りお太郎には信じられなかった。可愛い女の子の父親が、鬼のような顔の似ても似つかぬケダモノという設定は、マンガの中だけでしか起こりえないのだと思っていた。しかし、アメリカのようなクレイジーな国には、そんなありえない話がごく普通にありえたりするのである。当然、ビッグ・ベアーは学生全員、体の大きなアメリカ人学生たちからも恐れられていた。彼の命令には、逆らうことなど微塵も許されない、まるで神の声とでも言える絶対的なものがあった。まさに無敵の男であり、学生に対しては笑顔など絶対に見せることがない怪物なのだ。だけど、たったひとりの娘の前では、そのオーラはすべて消え失せる。なんと、あの熊の顔に笑みがこぼれたりしている。信じられんことに、熊の体の半分くらいしかないような小さい娘から、“あっち行って”とか“邪魔しないで”なんて言われたりして、なすすべもなく肩を落として退散している姿さえも見られるのだった。そんなときだけ、彼に親近感がわいた。

この学校では学生全員に役割が与えられる。例えば食堂での皿洗い、教室の清掃、花壇の手入れなどがあり、日替わり、あるいは週替わりで、学校内のいろんな仕事を毎日行わなければならない。運が悪いことに、りお太郎には、みんなが敬遠したくなるような役割が頻繁にまわってきた。誰もが好まない仕事、その代表的なのが、ビッグ・ベアーから命じられ、彼の手足となって働く仕事である。具体的に言うと、学校のフェンスの修理、古い建物の改修、トラクターなどのメンテナンスなどで、いわゆる力仕事が多い。学校の仕事の時間になると、担当教官のもとに集合させられる。ビッグ・ベアーの前に一列に立たされ、名簿を見ながら点呼をとられるのだが、この時ほど自分が刑務所の囚人だと思ってしまう瞬間はないであろう。

RYUTAROという名前をリストに見ながら、「リ ユータ・・・ 何だ、これは!」 アメリカの熊には日本人の名前を発音することはできなかった。りお太郎は、「発音しにくい名前なので、リオと呼んでください。」とか、そういう時に言うようにしてたが、ビッグ・ベアーの前では怖気ついているから、何も言えなかった。それ以来、彼には名前を呼ばれずに、「ユー」か「ヘェイ」、といった感じで呼んで頂いた。そして名簿を読みあげる際は、りお太郎がいると、またお前か、という顔で一瞥され、すぐ次の人の名前が呼ばれるようになってしまう。

もう一度言っておくが、あの優しい、青い瞳の子の父親なのである。悲しいことだが、それが現実だった。りお太郎はベアー教官の前では懸命に働いた。どんな大変な仕事でも嫌な顔ひとつしなかった・・・と思う。業務時間が過ぎていても平気な顔をして働いた。まぁ、不満を言うような勇気はなかった。ビッグ・ベアーはりお太郎に腕力がなくて、手際が悪い上に、物覚えが悪いということも見破っていたが、それでも彼の元に頻繁にあらわれる日本人をしぶしぶ使っていたようだった。用務員の彼には、自分と一緒に働く学生を選ぶという権力はなかったのである。そこには、何かしらの縁があったのかもしれない。誰の目にも触れることがないようなオレゴンの田舎の山ん中に、りお太郎と熊が作った木の柵が、今も建っているだろう。

大きな障害をのりこえ、りお太郎が青い瞳の子とふたりっきりになったりして、さらに心をひらいていく。そのストーリーは、また次回に。

| | コメント (0)

2008年1月24日 (木)

青い瞳に、話しかける・・・ことができない。

今日も山に登ってきたのだが、寒かったせいか結構疲れた。毎日、体を動かしているわけではないので、自分が思っている以上に体の衰えが進行している。年齢を重ね、ずい分と弱くなってしまった。でも、体力を維持するために、何ができるのだろう。忙しいせいもあるが、毎朝ジョギングをするようなエネルギーは体のどこからもひねり出せない。

17、18歳の時、りお太郎は毎朝走っていた。2年くらいの間、4kmのコースをずっと走り続けた。おかげで、当時は底なしの体力を誇り、大学に入ってからは登山ばかりしていたが、ホントに疲れ知らずだった。今とは大違いである。でもこの時、一生懸命になって飽きもせずに走っていられたのには理由があった。

まずは、りお太郎が留学していた高校のことを説明しなくてはならない。アメリカ・オレゴン州の田舎町、シェリダンの町外れ、小高い山の上に全寮制の高校がポツンと立っていた。フルーツ園や小麦畑が広がるウィラメット・バレーを見下ろす最高のロケーションにあり、アメリカらしい風景に囲まれ、比較的過ごしやすい気候にも恵まれている。そんな学校なのだが、そこは通称“プリズン”=刑務所と呼ばれていた。

山の上にある学校と、併設された寮はシェリダンの町からはかなり遠い。車ならば10分くらいだが、歩くとなれば大変である。片道3時間はかかるだろう。その距離はともかく、規則では無断で山を降り、町に行くことは許されていなかった。学生は毎日授業を受け、午後は自習時間で勉強に励み、夜は何かしら学校の仕事を割りあてられることになっていた。寮の門限、消灯時間も決まっていて、自由な時間は限られている。留学生にとって、陸の孤島のような学校から脱走することなどはありえない。そこはまさに“プリズン”のような学校。

さて、りお太郎は決して従順で、出来の良い学生ではなかったが、厳しい校則に反発するわけでもなく、ただ毎日エネルギーを持て余しながら暮らしていた。なかなか上達しない英会話と、異国にいる寂しさや、アメリカのまずいメシのせいで、つねにストレスが溜まっているような状態だった。フリーの時間にバスケットボールとかで汗を流していたが、それでも足りなかったのか、ある日突然、ジョギングでもしてみようかと思い立ったのである。寮を出て、体育館やグランドの横を駆け抜けて、先生たちの住む住宅地を過ぎ、山の麓にある学校の校門まで行き、同じ道を帰ってくるコースにした。復路は上り坂なので、かなりしんどい。強い意志があったわけではないので、すぐにやめてしまっておかしくはなかった。

りお太郎が朝、走っていることに何人か気づき声をかけてくれたが、別に大したことはない、学校でほとんど目立たないりお太郎が注目されるようなことはなかった。しかし、その姿を毎日のように気にとめて、ちゃんと見ていてくれた人が、たったひとりだけいたのである。それは、先生たちの家のひとつ、ちょうどランニングコースの道がわに面した部屋に住んでいた、アメリカ人の女の子だった。彼女はおとなしい方で、背は低く、細身だが、青い大きな瞳が印象的な子だ。

りお太郎がジョギングを始めてしばらく経ったある日のこと、彼女から声をかけられたのだが、いきなり“22分だったよ”とか言われ、りお太郎には何のことやらさっぱり分からなかった。拙い英語の能力しかない為、すぐに理解できなかったのかもしれないが、彼女はジョギングのタイムを教えてくれたのである。それは、その子の部屋の窓の下を通過し、また戻ってくるまでの所要時間なのだった。彼女は、僕が走りに行き、帰ってくるまで見届けてくれていた。その事実が、紛れもない事実だと気づいたとき、りお太郎は驚いたが、この上ないくらいの喜びを感じたのだった。

それから先、りお太郎がアホみたく、毎日毎日同じコースを走るようになったことは言うまでもない。雨の日も、雪が降った日さえ、目は冴えわたり、ベッドから出ることを躊躇することはなかった。そして、たまに彼女から、“よく走るね”とか“前より早くなったじゃない”などと言われて有頂天になった。さて、この先の進展はいかに・・・ 次回に続く

| | コメント (0)

2007年6月28日 (木)

旅をしながら、昔にタイムスリップ

この間、I-nacの海外研修の下見で、アメリカを訪れた時のことである。

ユタ州のザイオン国立公園を訪問し、ビジターセンターやキャンプ場を見てまわった後、公園の敷地のすぐ外にあるガソリンスタンドに立ち寄ったのだが、そこで、りお太郎は不思議な体験をした。

視察を終え、そのガソリンスタンドでなにげなくガソリンを入れていたら(アメリカのスタンドはほとんどセルフだ)、そこで見ていた景色が、なぜか見覚えがあることに気がついたのだ。そして次の瞬間、りお太郎の頭に、すっかり忘れていた記憶がよみがえってきたのだった。「あれ?ここは前に来たことあるような・・・」とか、つぶやいていると、まるで大きな波がうち寄せるような勢いで、いろんなことが鮮明に思い出されてきたのである。

りお太郎が最初にザイオンに来たのは15年くらい前のことだ。そのときは16、17歳で、ユタ州を代表する国立公園であるブライスキャニオンとザイオンを訪れたのだが、じつはこれが記念すべきアメリカでのひとり旅のデビュー戦だった。当時の自分としては、できうる範囲内で最大限の冒険だったわけで、特にたいへんだったこと(今思えば、無茶だった)、それは、旅の移動手段として“ヒッチハイク”というやり方をしたことにあった。

そのガソリンスタンドは15年前に、ヒッチハイクをしながら何時間も立ちつくしていた場所なのである。全く気がつかないうちにその同じ場所に戻ってきていて、知らないうちに立っていたのだ。そのことに気づいた後、夢を見ているような気分から、なかなか醒めることができなかった。そして昔の自分が目の前に現れ、話しかけられたような錯覚を受けた。

はじめてザイオンを訪れた旅では、いろいろと思い出深いことがある。ヒッチハイクでは、なかなか車が止まってくれなかったので、ガソリンスタンドで優しそうな人に直接声をかけて、乗せてもらったりした。ザイオンのキャンプ場では場所を確保できず、家族連れで泊まっていた人にお願いして、片隅にテントを張らしてもらった。ひとりでいろいろと苦労しながらも、たくさんの人に助けてもらったおかげで、良い旅ができたのである。

その当時はオレゴン州の高校に通い、住んでいたのは寮だった。規律を守らなくてはならない高校で、学校の外に行く機会も少なかったので、すべて自分の好きなようにできる旅の間は、とにかく楽しかった。オレゴンからグレイハウンドバス(前回の項参照)でユタ州のシーダーシティまで移動し、そこからはヒッチハイクで、ブライスキャニオン国立公園に行き、さらにまたヒッチハイクでザイオンまでたどり着いたのだった。

最後の最後にザイオンのハイキング・トレイルの中で、もっともハードでエキサイティングだと言われている、“エンジェル・ランディング(天使の降り立つ場所)”までのコースを歩いて、旅の総仕上げにした。渓谷の中に張り出している岩場で、数百メートルの高さの断崖絶壁上を歩かなくてはならず、かなりスリルがある。まだ登山にハマる前なので、しっかりした靴なんかも持っていなくて、スニーカーにフツーのTシャツという格好だったが、岩場の最上部まで到達でき、大きな満足感を得た。

こういった思い出をすべて忘れていたわけではなかったが、若いりお太郎が持っていた溢れんばかりのエネルギーと冒険心、無鉄砲だけど純粋なハートを、あらためて、ありありと目に浮かべることができた。ヒッチハイクしていた場所に戻らなければ、ひょっとしたら何も思い返さずに、ただ通り過ぎていたかも知れない。突然ではあったが、ずいぶん歳をとったことにも気づかされた。そして、今のりお太郎は、若かったころに持っていたものをずいぶん失ってしまっているようだし、あるいはそのころの自分と比べると劣ってしまう部分もあることを認識させられた。

ただ、それでもりお太郎は嬉しかったのである。昔のことを思い出せたことも、昔の自分をふりかえることができたのも、すごく良いことだった。これからもがんばっていこう。また、いろんな場所へ旅に出てやろうという気持ちを奮い立たされた。そして、15年前にお世話になった人、またユタの大自然に感謝する気持ちが湧いてきたのだった。ザイオン国立公園が、前と変わらず美しいままなのは、ホントにありがたく思えた。

| | コメント (0)

2007年6月15日 (金)

アメリカを旅するなら“グレハン”が面白い。

前回はバスや電車を使った移動で、ちょっと苦労した話をしたが、りお太郎はどんなに不便であっても電車やバスで旅行することは大好きである。電車では、ずいぶん小さいときから“青春18きっぷ”を使って日本各地を旅してきた。バスの旅で思い出深いのはアメリカ留学中の時のことで、りお太郎がアメリカの広さを最初に実感することできたのは、バスの旅でだった。

0090018アメリカのバスと言えば、“グレイハウンド”である。グレハン(略して)はアメリカ中を網目のように路線で結んでいる長距離バスの会社だ。主要都市間は必ずと言って良いほどグレハンが走っている。快適かどうかを抜きにすれば、大型でシルバーの車体に青と赤のストライプがあるボディはいかにもアメリカンな感じで、いろんな世界の乗り物の中でもカッコ良い方の部類に入ると思う。路線の本数も充実していて、なによりも安いので、りお太郎はオレゴン州のポートランドを基点に、シアトルやサンフランシスコ、ラスベガスなどいろんなところへ旅をした。

グレハンは庶民の乗り物である。車社会のアメリカにおいて、自家用車を持っていない人の割合は日本より少ないと思うが、グレハンのバスを足にする人は意外に多い。バスの旅の楽しみは、車窓からの景色にもあるが、グレハンでは、たまたま隣に座った人から話しかけられることがよくあり、そこで垣間見ることができるアメリカのヒューマンストーリーから、驚きや、感動をもらったりして飽きることがないのだ。

りお太郎はいろんな人と車内で話ができたし、その人たちと別れ際にシェイク・ハンドをするまで意気投合したこともあった。はるばる日本から来ていて、しかもアメリカで“勉強”しているのだと言うとけっこう感動してくれるのである。グレハンで出会う人たちはだいたい海外旅行とかと縁がないので、日本はずいぶんと遠いところだと感じるのであろう。また逆に、相手の身の上話なんかを聞くこともあったが、その人が都市を転々としながら働いている人で、離婚して離れ離れになってしまった子どもに何年かぶりに会いにいくところなのだと聞いたりして思わず涙ぐんでしまうこともあった。

アメリカ人は、基本的にオーバーアクションな人たちだと思うが、グレハンのバスターミナルで良く見られる光景が、男女の別れのシーンである。ものすごく熱いハグをかわし、十分すぎるくらいのキスをしていたりする。そして、バスが発車するときは涙、涙、涙、つられてりお太郎まで思わず涙なんてときもあった。日本人のカップルが窓越しにイチャついていたりすると、なんかわざとらしくて、いやらしいと感じてしまうのだが、アメリカ人のまっすぐ過ぎる行動に、こちらもつられて感情移入してしまうから不思議だ。これは、映画を見るよりもずっとリアルだ。

Ameri15_2グレハンに乗ると、景色を見ながら、つい前後の席の会話なんかを聞きいってしまう。そして、その話から伺えるアメリカの生活や文化を知ることで、アメリカって面白いなと思ったりするのである。そんな旅のスタイルこそが、バスの旅の醍醐味であり、グレハンの旅の魅力だったりする。

| | コメント (0)

2007年5月30日 (水)

りお太郎 & Shuntaroがゆく

この間の日曜日、2歳の息子と一緒にプチ旅行をした。旅行と言っても、たった3時間程度だが、自動車、電車、バスといろんな交通手段を使って、けっこう楽しむことができた。

まず、りお太郎の息子、Shuntaroが現在、何に一番興味を持っているかを説明しなくてはならない。Shuntaroは完全にトミカにハマっているのである。一日の中で、かなり長い時間をミニカーで遊ぶ時間に費やしている。おかげで、トラックとバスの違いはおろか、幼稚園バスからクロネコヤマトのトラックまで細かく区別することができるのだ。だから外に出ると、ずっと道行く自動車に釘付けになっている。そして、最近になってShuntaroから強い要望があったのが、電車に乗せてほしい、ということだった。ついに車だけでは飽き足らず、電車まで興味の対象をひろげてきたか。まあ、それも良いだろう。

そこで、Shuntaroを車に乗せて、とりあえず近くの駅まで行った。すると、ちょうど良く電車がホームに入ってきた。Shuntaroは大喜びだ。いちおう時刻表を確認してから乗り込もうと考えていたのだが、この電車を逃すと次に来る電車をどれだけ待つか分からない。だから、乗ってしまった方が良いに決まっている。そう思って、ふたりで急いで乗り込んだが、これはあまり賢い行動ではなかった。

りお太郎の住んでいる上越市を通っているのは信越本線で、ローカル線と言ってしまうほどの路線ではないが、電車の本数はずいぶんと少ない。はしゃいでいるShuntaroと一緒にずっと電車に乗っていたかったが、車をとめた駅まで、またもどらなくてはならないから、一駅だけですぐに電車をおりた。そこで、りお太郎は次の上りの電車が来るのが2時間後だということを思い知らされたのだった。

2時間も待つのか・・・なんと不便なことだ。最近自分の車でしか出かけていなかったから、電車を使うと思い通りにならないことがいろいろとあることを忘れていた。特に新潟のような田舎ではなおさらのことだ。ここで、りお太郎は頭を切り替えた。と言うより、電車をあきらめたのだった。電車がダメならバスだ!Shuntaroはバスにも乗れたらもっと喜ぶに違いない。

駅から大通りまで徒歩で20分かかった。Shuntaroは電車に未練があったようだったが、いくら待っても電車は来ないのだよ。と、りお太郎がさとして理解してくれたようだった。そしてバス停に着いた。次のバスが来るのは・・・40分後。あぁそうなんだ、やっぱ日曜日だし、本数少ないな~。しかも駅まで戻るために、一回バスを乗り換えなくてはならないのである。一回乗って、すぐ降りて、次のバスが来るまでまた15分の待ちか・・・効率が悪すぎて悲しくなる。Shuntaroはバスにも乗れるのだとを聞いて、素直に喜んでいたが、そのバスを待つ時間は必要以上に長かった。ばすおそいね、ばすおそいね、と繰り返し言っていたので、ようやくバスがやって来た時の喜びようは、大変なものだった。

そのバスの移動もあっというまだったので、実際のところ待っている時間ばかり長かった。それでもShuntaroにとって充実した数時間だったに違いない。大好きな乗り物にたくさん乗れたからね。車に戻ってから、すぐに帰宅したが、りお太郎の奥さんから、ふたりで何をやっていたの?と呆れたように言われた。

| | コメント (0)

2007年3月 4日 (日)

地平線のかなたに見えたのは、灼熱の大地とアリゾナ州

わざわざ海外に行って旅をすることにどれほどの価値があるのか、りお太郎自身も正直言って分からない。りお太郎の場合、山登りを目的に外国に行く事が多いが、単独ゆえか、登山に失敗することは多い。世界的に有名な山である、ヨーロッパアルプスの“マッターホルン”やアラスカの“マッキンリー”などにも行ったが、その両方とも登頂はできずに途中で断念している。りお太郎は旅そのものに価値があると思っているので、山の頂に立てなくても、海外まで旅をしてきたことで大きな喜びを感じられる。しかし、山を登りに行ったのに、頂上まで登れずに帰ってきていては、少し悔いが残るし、まわりからも残念だったねというような言葉をかけられてしまう。

そんな中、りお太郎の旅が過大なほどの評価を受け、その旅をやり遂げたことで、だれもが口をそろえて賞賛してくれた旅がある。もう10年以上前のことだが、アメリカ大陸を自転車で横断した時のことだ。今よりもずっと無鉄砲だった19歳のりお太郎は、根気強く毎日約100kmを自転車で走り、2ヶ月くらいかけて太平洋から大西洋まで自転車をこいだのだった。その旅には計画性がなく、行き当たりばったりだったので、無事に終えられたこと自体が幸運だった。しかも、旅の終わりでノースカロライナ州の田舎町にあるサイクリングクラブの会合に招待されたり、地元の新聞の記事になったりするというおまけまでついたのだった。

自転車で5,000km以上走ったと言うと、とても大変そうに聞こえるので、この旅について人に話すと驚かれたり関心されたりもするが、実際のところは若さゆえにある勢いと、十分な時間とそれなりの体力があれば、誰にでもチャレンジできる旅なのかもしれない。ただ、りお太郎にとって旅の前半、最初の2週間くらいはとてもつらいものがあった。しかし、この旅が思い出深いのは、やはりきつい思いをいっぱいしたからであり、特に旅の出発地だったカリフォルニア州と、その隣のアリゾナ州を走っている時のことは鮮明に憶えている。

W51308deathv06dd368 西からカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコと、アメリカでも南部のエリアを自転車で旅をしていたのだが、これらのエリアは乾燥した砂漠地帯である。出発したのは5月だったが、その時期でも相当暑かった。自転車で走るのはつねに炎天下で、舗装された道路からの照り返しもきつかった。気がつくと、自分自身の汗が蒸発して、体中が塩をまぶされたように真っ白になっていた。あと、つねに大型のトラックが横を走りぬけ、排気ガスのせいで鼻の中はいつも真っ黒だった。クタクタになってキャンプ地に着き、ほとんど倒れるようにテントの中で寝入ってしまったりして、朝起きて寝袋の上で、自分が死体のように醜く、汚い姿でいることに愕然とした。

「1995年 夏のある日」

この旅で使っていたのは超テキトーなロードマップ。それを見ながら最短距離のルートを選びながら、かなりアバウトな感じで東に移動していた。しかし、いきなり大きな峠があらわれたり、地図上では表されていないが、道がクネクネ蛇行したりしていて、自転車に走りにくくて苦労したりした。出発してから1週間がたって、ようやくカリフォルニア州から、アリゾナ州に入れるというところまで来た。ここに、カリフォルニアの最後の町から、アリゾナの最初の町まで、なんと170kmもの無人地帯があった。その区間は、建造物はひとつもなく、日陰を作ってくれる木もまったく生えていないようなところだ。途中コンビニなんかがあるはずもないが、出発地から170km先にガソリンスタンドが一軒あるらしいということが地図で分かった。西海岸から東海岸まで全部で10の州を横断する予定でいたが、ここを通過すればそのひとつのカリフォルニア州はとりあえず終わるのだと思ったら気合が入った。

その日は4リットルくらい水を持って出発したが、灼熱の大地の直射日光により、あっという間に水はお湯になった。汗が乾いて体中が塩辛くなっている。そのまま、アスファルトの上で焼き魚のようにされてしまいそうだ。自転車にはテントや寝袋、コンロから炊事用具までいろんなものを積んでいるのでけっこう重い。少しばかりの登り坂でも、体が悲鳴をあげる。暑すぎて食欲は無くて、とにかく170km先のガソリンスタンドにたどり着くことしか頭にはない。必死になって自転車をこぎながら、考えていたのはガソリンスタンドで買えるであろう、アイスや冷たいジュースのことだった。砂漠の中のまっすぐの道は果てしなくて、まるでずっと同じところを走っているようだ。はるか彼方先まで同じ景色が広がっていて、一直線の道路以外もはなんにも見えない。目標物になるものは何もなかった。そして行く手にある道は蜃気楼のようになってかすんでいて、距離感さえ分からなくなるのだ。

W51308deathv30dd380 朝早く出発したのだが、、夕方になっても自転車をこぎ続けていた。自転車のスピードはかなり遅かった。食欲がでないから、エネルギー補給もままならず、いわゆるシャリバテのような状態だったのだろう。だけど意識だけははっきりとしていて、冷たいジュースとアイスという明確なゴールに向かって進んでいた。そして日が傾き、砂漠がオレンジに色づいてきた頃になって、ついに地平線の彼方に見えたものがあった。何時間も景色がほとんど変わらなかったから、ささいなものでも見逃さなかった。黒い四角いものと、その隣に棒のようなものが立っている。それがガソリンスタンドで、棒のように見えたのは“テキサコ”とういそのガソリンスタンドの看板だと気づくのに時間はかからなかった。地図どおり170km先にガソリンスタンドがあったのだ!走りきったという達成感と安堵感が、限界に近かった体に少し力を与えてくれたように思えた。ガソリンスタンドと、そこで手に入れることができる、太陽に照らされ続けた体を冷やしてくれるもののことで頭がいっぱいだったが、ガソリンスタンドに近づいていきながら、疲れきったりお太郎の目にさらに驚くべきものが写った。まったく予想していなかった景色が視界に飛び込んできたのだった。

ガソリンスタンドの先には、相変わらず一直線のまっすぐの道が続いていたが、そのむこうの地平線のかなたには緑の大地が見えたのだ。一瞬幻覚かと思ったが、幻なんかではなく、まるでオアシスのような場所が確かに広がっていた。ずっと赤茶けた渇いた土と灰色の道路しか見ていなかったせいか、それはあまりにも美しい景色だった。その緑の大地の中心には大河が悠々と流れていた。これがカリフォルニア州とアリゾナ州の境を流れるコロラド川とその流域周辺だったのだが、ボーっとした頭にはこの近隣エリアの地形を描くことは難しかった。

ガソリンスタンドでガソリン以外のものでエネルギーを補給したあと、りお太郎は快調に飛ばした。道がコロラド川までゆるい下り坂になっていたこともあるが、それより、弱気になっていたりお太郎のハートが強く鼓動をはじめたことで、元気がもどったのだ。りお太郎がそのとき見ていた景色は言葉ではあらわせないほど壮大な景色だった。ロッキー山脈から流れ出た大河は、いつかメキシコの海にそそぐ。そんなアメリカ大陸のスケールのデカさを肌で感じることができていた。コロラド川のむこうの大地は、ずっと地平線の果てまで永遠とつづいている。その大地がつきるまで、自分は行こうとしている。まだ見ぬ大西洋に到達するまでだ。そのとき、りお太郎は幸せな気持ちで一杯だった。大自然の真っただ中で、自分は懸命に生きているという実感がわいて鳥肌が立った。まだ旅は始めたばかりだったが、自分はこの旅をやり遂げられるだろうという根拠のない自信がわいてきた。

「その後は・・・」

アリゾナ州に入ってからも苦労の連続で、道路にアップダウンが多くて、毎日いくつもの峠を越えなくてはならず大変だった。でも、いつのまにかりお太郎の足はパワーアップしていた。自転車に乗ることが楽しいと思えるようにもなった。アリゾナの東部、ショウロウという町は忘れられない町のひとつで、ここではキャンプ場が見つけられなかったので、仕方なしに適当な場所で野宿しようと考えた。しかし、最後に寄ってみたキャンピングカー専用のキャンプ場(テント泊は禁止されている)の人が、汚い日本人なのにとても親切にしてくれて、最高に快適な芝生の上にテントを張らしてくれたのだった。キャンプ場代は当然のように無料だった。さらにディナーを振舞われたり、それまでの行程での苦労話しを半ば無理やりに披露させられたりした。そして、東海岸に無事到着したら、はがきを送ってくれと頼まれたことで、すごく勇気づけられた。これで途中、旅を断念してしまうことができなくなったと思った。ひとりぼっちの旅だったが、いろんなところで出会った人たちから支えてもらい、うれしさで涙を流すほうが、つらくて涙が出そうになることよりもずっと多かった。

ショウロウ周辺は見渡す限り牧場ばっかりなのだが、まっすぐにのびている一本の道を自転車で走っている時はすごく気持ちが良かった。何百頭という牛が、めずらしいものでも見るように、りお太郎を見ていた。そんな光景は一生忘れることはできないだろう。

| | コメント (1)

2007年2月13日 (火)

「オルガンパイプ・サボテン」と語り合ったこと

りお太郎がアリゾナ州で、最初にバックパッキング(ザックを担いで何日間かキャンプをしながら、トレッキングすること)をした場所が、オルガンパイプカクタス・ナショナルモニュメントという広大な国立公園である。カクタスとはサボテンのことで、ここではオルガンパイプのようなかたちをした珍しいサボテンを見ることができる。

Organ_pipe_cactus_1メキシコとの国境を挟んで、アリゾナ州の最南に位置するこの場所にしか、オルガンパイプサボテンは分布していない。ひとつのサボテンが何本もの枝に分かれて、ニョキニョキと空に向かって生えている姿は、かなり独特なものであり、どこか不思議なんだけど、とても美しいのだ。夏には先端部分に花が咲くので、さらにもっと美しくなる。りお太郎は大学の授業でこの地を訪れ、そのサボテンだけでなく、このエリア全体の雰囲気に魅せられた。

現在、オルガンパイプカクタス・ナショナルモニュメント内では、整備されたキャンプ場に泊まることはできるが、公園の奥の方にバックパッキングで入ることは禁止されてしまった。理由は、メキシコの国境を越えて不法に入国する人が絶えず、それを取り締まるため国境周辺を無人地帯にするからだということだ。それによって何年か前にりお太郎が通ったルートを、同じようにトレッキングすることはできなくなった。その当時でも、ほとんど人が入っているような感じはしなかったが、今は公園のほとんどが秘境のような場所になった。きっと何年間も、まったく人目に触れることのないオルガンパイプ・サボテンが、いくつもあるに違いない。

さて、りお太郎がここを訪れた時、一緒だった仲間たちについて紹介したい。アメリカの大学でアウトドアを専攻していたりお太郎は、その大学の選択授業で「アウトドア・セメスター」という、4ヶ月間もの間大学を離れて、アメリカとメキシコを旅をしながら学び、同時に単位も修得していく、ものすごく特別なプログラムを受講した。20人くらいで大きなワゴンに乗って各地を転々と回るのだが、(ちょっとあいのりっぽい)毎日キャンプで自炊だし、登山、クライミング、カヤック、スキー等を活発に行い、さらに植生や生態学、野外教育の歴史から地質学、考古学まで幅広く学ぶのである。まるで旅行のようだから楽しいと感じることも多いのだが、精神的に追い込まれることもある。なぜならば、一緒にいる20数名の仲間たちとは常にず~っと一緒で、すべてのことを話し合いによって決めなくてはならず、何回も議論を繰り返しながら物事を解決していくという、とても労力のかかることがついてまわるからだ。(登山の中で山頂をあきらめ撤退するかどうかという決断から、たかが夕飯のおかずをどうするか等、ホント小さなことまで話し合う)

Body_bc556campingdeanmy オルガンパイプカクタス・ナショナルモニュメントでは、グループに分かれて4日間のバックパッキングを行い、ナビゲーションスキルを実践することと植物を研究することがりお太郎たちに課された。意外と簡単そうに聞こえるかもしれないが、この公園はとにかく広い上に地形の変化が少ないので、コンパスを使ったナビゲーションが難しい場所なのだ。しかも、ここは灼熱の砂漠であり、日陰をつくる樹木も小川なども全く存在しない。ザックの中には一日2リットルとして合計8リットル(重さにすると8kg)も水を運ばなければならなかった。りお太郎たちは、必死になって一日中歩いたが、方向を誤ったりして、夜更けまで目的地に到着することができないことがあった。暗くなってから重いザックを担いでフラフラしていたら、ふくろはぎに小さいサボテンが刺さったりして泣きたくなった。

そういった状況の中では、一緒にいる仲間どうしでサポートし合うことが大事になってくる。たしか、りお太郎のグループには2人の女の子とジェフがいたはず。(全部で5人くらいだったと思うけど、他のメンバーのことは忘れた。)はっきり憶えていることは、女の子たちは体力がなかったこと、そして愚痴ばかり言っていたことだ。それを一生懸命に受け止めて、グループの中で一番責任感があったのがジェフだった。アメリカ人としては寡黙な方で、何を考えているのか分からない印象なのだが、押し黙ったまま黙々と物事をこなす男だった。多分言いたいことがあるのに、いつもそれを言わないで他人の意見を尊重していたのではないだろうか?ジェフは体力があった。それゆえにみんなの先頭に立って、グループを率いることが多くなったが、とかく迷いやすい地形だったため、思うように目的地に向かって進んでいかないことがよくあった。情けないことにりお太郎は、砂漠という場所に戸惑い、熱くてやりきれなくて、もうナビゲーションをする余裕はなくなっていた。

グループが夜になっても幕営地にたどり着けなくて、ひたすら歩き続けなくてはならなかったのは、もちろんジェフだけのせいではなかった。全員で協力して、地図をじっくり見ながら進んでいくべきところを、ジェフ以外のみんなは疲れてしまい、怠けていただけのことだ。しかし、グループの女の子たちの非難と、愚痴はジェフに対して集中した。そんな文句ばかり言うなら、おまえたちもコンパスを使ってちゃんとナビゲーションをしたら良いだろうと、ひとことでもりお太郎から声が出れば違ったかもしれないが、りお太郎は女の子には遠慮がちになっていた。愚痴の矛先がこちらに向くことを恐れたに違いない。そんな状況でもジェフは頑張り、一心にグループの責任を背負ったのだった。絶対に、文句に対しても言い返すことはしなかった。

Dscn1392バックパッキングの後半になっても、灼熱の大地に苦しめられた。いい加減オルガンパイプ・サボテンには見飽きていて、ただ活動が終了することばかりを願うようになった。女のメンバーたちの言動はとどまることを知らず、ジェフに対する遠慮などまったくなかった。ある日の夕暮れ、ヘトヘトになってキャンプ地に着き、ホット一息ついていたら、ジェフの姿が見えなくなった。りお太郎はあまり気にしなかったのだが、用を足すためにキャンプ地を離れたら、ばったりジェフに会った。厳密に言うと、ジェフが怒り狂って大暴れしているところに出くわしてしまったのだ。ストックを振り回して、こともあろうにオルガンパイプ・サボテンをぶった切りにしていたのだ。(このサボテンは国定記念物に指定されていて、伐採や花の採取などは当然のように禁止されている。見つかったら罰金だ!)りお太郎に気づいたジェフがとった行動は一生忘れられないものとなった。ジェフは手に持ったストックを投げ出し、子どもように泣き出したのだ。そしてわれに返ったように、オルガンパイプ・サボテンに謝った。顔を地面に押し付けて必死になってソーリーを連発していた。その姿を見て、僕からも心の中で必死にオルガンパイプサボテンに謝りました。その時、頭の一部が無くなってしまったサボテンは、悲しそうにふたりを見ていました。

りお太郎にはジェフにかける言葉も無かったが、とにかくあのクールで、屈強な男が泣いていることに大きなショックを受けた。その時感じたのは、せめて自分だけでも絶対にジェフの味方になってあげなくてはならないということだった。だから、りお太郎は残りのバックパッキングの間、積極的にリーダー的な立場のジェフをアシストし、女の子たちにもダラダラ後ろからついてくるだけでなく、地図を見て考えるよう声をかけるようになった。それによって、グループ全体が分裂することはなく、逆にみんなが協力し、お互いの意見も言い合えるようになり、雰囲気が良くなったのだ。

バックパッキングの最後にはみんなの顔には笑顔があり、ゴールに到着した時にはアツい“ハグ”をかわすことができた。ジェフとはかたい握手をしたのだったが、彼の口からサンキューという言葉をもらった時は素直にうれしかった。

何年かしてから、ジェフとは再会する。彼はりお太郎よりも早く大学を卒業し、ファイヤーファイター(消防士)になった。彼の勤務先の小さな田舎町に、何人かで図々しく遊びに行ったことがあったが、きまじめで、精神的にも強い彼には消防士という職業はぴったりだと思った。がっちりした体型のジェフに、消防隊員の制服はとても似合っていた。

| | コメント (0)

2007年2月 1日 (木)

そしてたどり着いた場所は、GRAND CANYON

226627_1りお太郎が初めてグランドキャニオンを訪れたのはたぶん16歳くらいの時だったと思う。高校の先生や同級生数人(りお太郎はアメリカの高校に通っていた)と一緒に、大きなキャンピンカーでオレゴンからアリゾナのグランドキャニオンまで2週間くらいかけて旅行した。

今でも、かなりはっきりと憶えているのだが、一番最初にグランドキャニオンを目にした時は、想像していたものより何倍もインパクトがあり、ただただ驚くばかりで声も出なかった。とにかく感動した、とひとことで言ってしまえば簡単だけど、若いりお太郎にとって、グランドキャニオンとの出会いは衝撃的で、それは完全に一目惚れのようなものだった。

13911国立公園に指定されている範囲で言えば、グランドキャニオンは全長約450km、深さは平均で1,200m、幅は広いところだと30kmにも及ぶ。しかしその規模が示すスケールは、あくまでもグランドキャニオンの単なるデータであり、あの峡谷のスゴさや偉大さを形容するものではない。りお太郎がグランドキャニオンに驚かされた理由、またグランドキャニオンに恋をしてしまった理由は、なによりも、あの峡谷が美しかったからだ。ホントにびっくりするくらい美しいんだ、これが!

225197はっきり言って、グランドキャニオンの美しさを表現したり、どれだけすばらしいところなのかを伝えることはわたしにはできません。だから、もう、みなさん自分でアリゾナに行って、見てきてくださいよ!めっちゃ感動するからさ。何もないような砂漠を進んでいくと、いきなり現れるんだ。大体いつも青い空の下に、ドーンとドでかい峡谷が見渡す限り広がるのだよ。夕日が沈むとき、その峡谷は真っ赤に染まって素敵なんだ。月明かりの下で、峡谷の端に腰掛けているとちょっと怖いんだけど、そんな時に、自然に対し心から感謝したくなるのだよ。あと、調子にのってグランドキャニオンを一気に谷底まで降りてしまうと、渓谷の上に戻ってくるのにとっても苦労するのだよ。りお太郎はホントひどい目にあったことがある。あそこは逆登山ができる。(行きが下山で、帰りが登山)

りお太郎はもうグランドキャニオンを6、7回は訪れているので、思い出を語ればきりがない。だから、その中のひとつだけを紹介します。

りお太郎が18歳の時に大好きだった女の子、I-nac生ならばみんなが知っている“ジェニファー”とのことです。いつだったか、ジェン(ジェニファーの呼び名)とふたりきりであれやこれや話をしていたら、彼女はグランドキャニオンに行ったことがない、ということを知りました。ジェンは酪農家の娘で田舎者なのです。りお太郎はグランドキャニオンの魅力について熱弁し、ジェンもそのうち行ってみたいな、などと言っておりました。当時ふたりが通っていたコロラドの大学が夏休みに入る直前の5月、もう授業もほとんどおわり、それぞれ地元に帰ったり、どこかに夏期アルバイトをやりに行ったりする計画をしていました。りお太郎はとりあえず山ばかりを登ることぐらいしか考えてなく、夏休みに仲間とどこかに行くような予定もないから、3ヶ月もある夏休みはひとりでいることが多くなることが目に見えていました。

もう何ヶ月間もジェンに会えないのだと考えると、とてもつらくて、寂しくてたまらない。だから、休み前ふたりきりになった時、りお太郎は思い切って彼女に言いました。

I'm going to Grand Canyon.  Do you want to come with me?  “俺はグランドキャニオンに行くんだ。一緒に行く?”

ジェンはそっけなく、わたしはモンタナに帰るわ、と言いました。(モンタナは彼女の地元) 悲しかったな~。これじゃあ全然、好かれていないなと思いました。そして傷心のまま、りお太郎は夏休みの間、ひとりでグランドキャニオンを訪れました。(行くって言ってしまった以上、行かないと嘘つきになっちゃうから)落差1,000mの谷底に飛び降りるような真似はしなかったけど、渓谷にむかって叫んだり、泣いたりはしたと思うよ。

なんと、ジェニファーはそのまま大学を転校してしまい、夏休みが終わっても、りお太郎が通っていた大学に戻ってくることはなかったのです。(アメリカで大学を転校することは、単位とかがそっくりそのまま別の大学に移行されるようになっているから、よくあることなのだ) だから、あれ以来ジェンには会っていません。

ひとりで勝手に恋をして、勝手にフラれた気になっていたのだけど、そんなこと分かっていても、相当ヘコみました。はじめて本気で好きになったアメリカ人、そのジェンに、最後に言った言葉は、グランドキャニオンに一緒に行こう!だったのです。グランドキャニオンが思い出深い場所なのは、そんな思い出があるからかもしれない。

124216今度、I-nacの海外研修でグランドキャニオンに行った際、りお太郎が寂しそうにたたずんでいたら、学生のみんなはぜひ、気をつかってそっとしておいてあげてね。

| | コメント (0)

2007年1月30日 (火)

アリゾナ州で、アメリカらしさを感じる

今年になって、ますますブログの更新が少なくなった。気がつけば、まだ記事3つしか投稿していないではないか。これではまずいので、自分自身を奮い立たせるためにも、りお太郎が海外で体験したこと、とくに何年か暮らしていたアメリカでのことを何回かに分けて、じっくり書いていこうと思う。

熱くなって語りだすと、なが~い文章になり、かなり読みづらくなるのは十分承知の上だが、これから伝えようとしている“アリゾナ州”に、りお太郎は相当強い思い入れがあるのだ。

1回目: アリゾナ州概要

2回目: そしてたどり着いた場所は、GRAND CANYON

3回目: オルガンパイプサボテンと語りあったこと

4回目: 灼熱の大地アリゾナを、BICYCLEでゆく

5回目: I-nacのアメリカ研修 in Arizona (予定)

800pxflag_of_arizona 286pxmap_of_usa_az_1

アリゾナは、アメリカ西部にある州で、太平洋に面したカリフォルニア州のひとつ東に位置し、メキシコとの国境を持っている。その面積は約30万平方kmで、日本の本州よりかデカイ。(本州は22万平方kmくらいだよ)アリゾナの特徴は、なんといってもその大部分が砂漠であるということ。勘違いしないように説明しておくが、決してサハラ砂漠や鳥取砂丘のような砂の砂漠が広がっているのではない。イメージしてもらいたい景色は、まさにアメリカの西部、サボテンが立ち並んでいて、馬に乗ったカウボーイなんかが砂煙巻き上げているようなところ。(実際はアリゾナには広大な森林も、大都会もあるのだけどね)

りお太郎にとって、3年間住んでいたオレゴン州にあるような地平線まで続く緑の平原や、4年間暮らしたコロラド州の雪をまとったロッキー山脈の壮大な景色などは特別な思いがある場所だ。にもかかわらず、なぜかあのアリゾナの荒涼とした、すぐにも唇が乾いてきそうな場所の方を思い出しては、懐かしく、恋しく思ったりするのである。たぶん、アリゾナの気候、サボテンの大地などは絶対に日本では体感できないものだということ、そして、まだアメリカに行ったことがない時から想像していたアメリカらしい景色が、まさにアリゾナのようなところだったからかもしれない。

アリゾナの中心は州都であるフェニックスで、そこは大都会なのだが、町を一歩でればすぐサボテンだらけの砂漠が広がる。また、アリゾナ北部に行くと、標高が少し高くなり、サボテン以外にもたくさん木々が見られるようになる。そして、その地平線のむこうに圧倒的なスケールで、訪れる人たちを驚かし、大いに魅了する場所があるのだ。そこが何千万年の歳月をかけてコロラド川によって創り出された峡谷、“グランドキャニオン”だ。

| | コメント (0)

2006年9月 7日 (木)

“話せる”旅人はやっぱりエライ!

前回エクアドルの話の中で、キトの治安悪さについて紹介した。日本に住んでいるとイメージするのが難しいけれど、いわゆる発展途上国と呼ばれる国では、予測できない危険とつねに隣り合わせなのである。タクシーに乗ったらスラムみたいなところに連れていかれ、身ぐるみ全部持って行かれることだってある。悲しいことだが、外国には旅行者をカモにして収入源にしている人が多くいる。しかし、その現実を知った上でも、海外で活動する意欲を持ち、たとえ被害者になったとしても、ただ腹を立てるのではなく、油断した自分も悪かったと言える旅人は逞しくなっていけると思う。Dscn0371_1

メキシコの街角(夜は出歩けない)

 海外を放浪したことがある人は、大なり小なり何かしら危険な目に遭っているもので、その経験によってトラブルに巻き込まれないようにするための術を身に付ける。りお太郎も何回か嫌な目にあっているし、旅先で情報交換をして、いろいろと知恵をつけさせてもらった。まず、日本人はお金持ちという先入観が外国ではあり、服装からして目立つ存在だし、とかく無防備なので悪い人たちの餌食になりやすい。個人旅行にはいろいろとリスクがあるのは当然なのだが、できるだけ安全に旅をするためにできることはたくさんある。

まず、貧しい国に行くのにオシャレをして行くことは、りお太郎的にしてみれば意味が分からない。それは“わたしはお金持ちですよ~”と宣伝しながら、“わたしからなにか盗んでみてはいかが?”と、現地の悪い人たちに挑戦しているようなものだ。この冒険的な行動には楽しいことなど何一つないはずである。お金を持っている旅行者ということをアピールせずに、シンプルな現地の人たちと大差ない格好をすることが得策だ。登山を目的に海外に行くと、目立つアウトドアウエアしか持っていないことがあるが、町歩き用に一枚でも服を持っていくか、安い適当な服を購入してしまった方が良い。その服は帰る時に捨てちゃってもいいけど、意外とそれが良いおみやげになる(あまり喜ばれない)。りお太郎の場合、日本の山で着ているウエアもけっこうボロくて、それを海外でも着ているので問題は無い。Img_0002_1

空港ターミナルで勝手に寝ているりお太郎

 治安が悪い国で安全に活動するために最も重要なテクニックはひとつしかない。それはその人が持つ情報収集力につきる。たとえば、海外に行く前に登山の技術に磨きをかけ、スーパークライマーになっていたとしても、山までたどり着くことができなければ意味がない。また、山に入るまでに大きな苦労があったり、十分な準備ができていないと、きっと思うような登山はできないだろう。せっかくの海外の山も、情報収集力の無い人は楽しみを半減させてしまう。だから、海外では(特に発展途上国)CIAかKGBのスパイになったつもりで、その国の情報を察知 し、的確で、安全な行動をとるために最大限の努力をするべきだ。

日本人はこれから海外に行くという時、情報源としてガイドブックに頼ることが大きい。りお太郎は決して統計をとったわけではないが、ほとんど人が“地球の歩き方”というガイドブックを使っているようだ。この本をあまり悪く言いたくはないが、この本は別名“地球の迷い方”と呼ばれている。ベテランバックパッカー(?)にとってはあまり役に立たない本である。ガイドブックのについてのよもやま話はまた別の機会にして、りお太郎が現地でどのようにして情報収集をしているかを紹介させていただきたい。もちろん出発する前にできることはすべてやっておくことが大前提だが、ガイドブックには載っていないこと、インターネットでは十分に把握できない、やはり現地に行ってからでないと分からないことはたくさんある。

宿選びは慎重にしなくてはならない。安全で清潔で、設備の整った施設が良いにきまっているが、それよりも情報収集ができる宿を見つけたい。例えば世界中から旅行者が集まっている“ユースホステル”には貴重な情報がいっぱいある。掲示板があり、各種パンフレットが置いてあるだけでなく、自炊ができるキッチンがあるので、そこで他の旅行者と気軽に話ができるのだ。ユース以外にも主要な町ならば必ずひとつはバックパッカーの集まる宿があり、談話できるスペースでみんな情報交換を行っているものだ。旅人が集まるような宿は、だいたい駅やバスターミナル、インフォメーションセンターだとかスーパーマーケット、市内観光のメジャースポットなど旅人にとって重要な場所へのアクセスが良い。それは好都合なことだし、いろんな意味で安心だと思う。英語が読めると、旅人が集まる宿を“Lonely Planet”などのガイドブックから(アメリカ、イギリスなどで出版されているもの)だいたい見当をつけることができる。しかし、それは経験を積むことによって得られる感覚だし、慣れも必要なのかもしれないImg_0008_1

海外ならではの、オンボロバスでの移動

 登山を目的に海外に行く場合も、山へのアクセスを考えた上で宿を選択する。重要なのは、山のふもとの町などで登山家たちがいる宿を見つけて情報収集することだ。あるいは、その町の登山用具店もしくはスポーツ用具店でいろいろ聞いたり、登山家っぽい人を見かけると、図々しく話しかけたりもできる。山に関しては普通のガイドブックとか、現地のインフォメーションセンターでは得られない情報ばかりなので、登山の専門書やインターネットに頼らなくてはならない。でも、一番聞きたい情報、登山を成功に導く鍵となるような情報を持っているのは、現地で実際に山を登っている人たちだ。単独登山で、宿泊はつねにテント泊にしていたとしても、他の登山者たちとのコミュニケーションをとることによって得られるメリットは大きいと思う。Dscn0343

生のチキンがいっぱい

 こうして考えると、ある程度の語学力が安全に海外を旅するためには、必要最低限の能力と言えるのかも知れない。しかし、南米のように英語圏ではない場所に行くと、英語ではなく今度はスペイン語が話せないと不自由になったりする。だから、たとえ言葉に自信がなくても積極的にコミュニケーションを図る努力をおしまないことだ。それによって必然的に語学力も上達するし、旅行者どうしが助け合って、お互い良い旅ができるようになれればすばらしいことだ。実はフリーター暦10年とかの、旅マニアが英語が堪能だったりする。とにかく旅好きならば言葉を憶えよう!

※写真は全部メキシコです。

| | コメント (0)

2006年8月29日 (火)

貴重なる留学生のデータ

りお太郎は、中学校を卒業してからすぐにアメリカへと留学し24歳まで、あっちで生活していた。そんなことを人に話すと、よく感心されたり、興味をもっていろいろと質問されることがあるが、実際の留学生の生活はたいしておもしろくもないし、平凡で人からほめられるようなものでない場合が多い。

毎年日本からアメリカに留学する人の数はじつに4万人を超える。テロによる影響で一時減少したけれど、今は9.11以前に戻りつつあるようだ。りお太郎が留学したのは1991年で、その年にはじめて1年間のアメリカへの留学者数が4万人に達した。1986年では、まだ1万5千人だったが、そこから急増して、じつに5年間で年間の留学者数は2.5倍になった。だから、りお太郎はちょうどそのアメリカ留学ブームにのってしまった口だったと言える。

そんな、どうでもいいデータはさておき、留学生の実態についてとりあえずひとつ紹介したいと思う。日本人留学生の最大の弱みは恋愛に対して不利な状況にあるということである。なんだそんなことか、と思うかもしれないけど、それが理由でアメリカ留学に挫折してしまった人はたくさんいるはずだ。これは語学力の問題も関係があると言えば、あるのだが、もっと根本的なところの話である。ぶっちゃけると、日本人の男はアメリカでは、まったくモテないのだ。これは悲しいことだが、りお太郎が現実として受け入れなければならなかった事実だった。ここではっきりさせておくが、日本人がモテないのではなく、日本人の男がモテないのである。これはデータにも謙虚に表れていて、アメリカにおける日本人留学生の男女比率は男4に対し、女6で、これは他の外国人留学生の男女比率が、男が圧倒的に多くなっているのを見ると特異にうつる。しかし、りお太郎にしてみればこれなんか当たり前のことで、アメリカは日本人女性にはとても居心地が良い場所だから、女の方が多くなるのは当然だと思う。アメリカ女性から、まったく見向きもされない日本人男性と違って、日本人女性はレディファーストの習慣を叩き込まれたアメリカ男性からとても大事にされ、もてはやされ、恋愛でも決して引け目を感じることがないはずだ。むしろ日本にいる時より、日本人女性たちは自分たちがモテるので、良い気分になっているのではないかと思う。

アメリカ人たちはシンプルな頭の持ち主が多い。料理の味付けと一緒で、大ざっぱになっている。アメリカ男性が恋におちると、相手に対して露骨なほどその愛をみとめてもらおうと突き進む。男の立場は弱いのだ。恋しているという弱みからではなく、選択権がほぼ女性の方にあるため、男の方は必死になってつくさなければならない。主導権をにぎっているアメリカ女性は賢く、強く、悪く言えば生意気で、それは美しい女性になればなるほど凄みを増してくる。こんな世界で、小心者の日本人男性たちが太刀打ちできるはずがない。

アメリカ男性たちにとって、日本人女性たちは驚くほど安らぎを与えてくれるのである。なぜなら日本人女性はアメリカ女性と逆でつくすタイプが多い。どこまでも優しく、男性を立てることを知っていたり、母性本能とやらを使って、男性が甘えてくることさえもゆるしてくれるのである。これはアメリカ男性にとって奇跡のように感じるはず。日本人女性たちが、お節介なほどつくしてくれることにより、多少ブサイクで、金髪女性ほどスタイルがよくないことも忘れてしまい、ジャパニーズのとりこになってしまう。アメリカ男性たちはホント単純なのだ。

アメリカでの、りお太郎の失恋話はあまりにも悲しすぎるので、できればしたくない。恋がはじまる前に、だいたいエンドマークが出されていた。金髪の彼女を夢見て、勇んで立ち向かったのだが、それは無謀な挑戦だったことに気づかされる。りお太郎による真珠湾攻撃は、たった一隻の船さえ沈めることができないまま、こちらが無残に撃沈されたのだった。

アメリカ留学については、またこれからも紹介します。できれば“コメント”でなにか質問をしてもらえるとうれしいです。

| | コメント (0)

2006年8月23日 (水)

自転車で本州の最南端へ!

ちゃりんこで旅をすることを趣味にしているりお太郎は、ここ何年かは北海道に通い、1週間くらいのツーリングを楽しんできた。今年の夏も新潟からのフェリーで自転車を持っていき、北海道を旅してこようと思っていた。

北海道に行くのを思い直して、旅先を変更するきっかけになったのは、なにげなく地図帳を見ていたら本州最南端という場所を見つけたことだった。その場所があるのは紀伊半島の先っぽ、和歌山県の串本町、潮岬(しおのみさき)である。りお太郎は最南とか最北という場所が好きで、北海道にある日本の最北端の宗谷岬、最東端の納沙布岬(北方領土には行けない)、また沖縄にある最西端の与那国島、最南端の波照間島(沖の鳥島には行けない)にも行ったことがある。それらはすべてちゃりんこの旅だった。だから、ちゃりで本州最南端まで行くことは、なかなか魅力的な計画だった。

Mk_map 紀伊半島には世界遺産の熊野古道や温泉で有名な白浜があり、また伊勢や志摩などにもりお太郎は行ったことがないので、一度は行ってこようという気になった。今回のちゃりの旅は和歌山市からはじめ、紀伊半島をぐるっとまわって、伊勢神宮がある伊勢市まで、海岸沿いを距離にすると約500km走ることにした。なにげなく立てた計画だったが、これが思いのほかたいへんな道のりで、かなりきつい旅になるのだった。

日程は8月11日から17日で、和歌山市までは電車で大阪を経由して行き、帰りは伊勢市から名古屋に出て新潟に戻る予定にした。さて、旅の苦労は自転車に乗る前から始まった。ちゃりが入った輪行バックをかついで、駅のホームからホームへの移動がものすごくきついのだ。それは、ちょうどこの8月の半ば全国的に猛暑だったからである。和歌山駅にたどり着いた時すでにヘトヘト、体が溶け出すほど暑い。気温はなんと38度まで上がっている。汗びっしょりになりながらも自転車を組み上げ、いざ潮岬に向けて出発したのだが、あまりに暑くて足がまわらない。熱中症が心配になってくる。この時、北海道に行っておけば良かったと後悔したが、もうおそい。しかも、大阪方面からの海や観光地などに行く行楽客で、交通量がめちゃめちゃ多いのである。ふらふらしていたら海に行く若者の車にひかれそうになる。さらに!海岸沿いに国道を走っていたが、かなりアップダウンが激しい。1日目から、ずいぶん過酷な旅になったと思った。

Pict0002_2 りお太郎はちゃりだと一日100kmを目安に旅をしてきているが、今回それはあきらめて、休憩を多くとりながら、朝と夕方まだ涼しい時間帯に最も力を入れて乗ることにした。2日目に白浜を通過し、やっとそこから交通量が減って楽になり、3日目に潮岬のキャンプ場に無事到着した。キャンプ大好きなりお太郎だが、風呂にも入らず、熱帯夜をテントで寝ることは気持ちの良いものではない。テントの入口は風通しをよくするために開けて寝たので、体中を蚊にさされた。三重県に入ってもアップダウンの多い道ばかりだったが、5日目になんとか志摩まで来れた。紀伊半島は思っていたよりもずっと山が多くて、その山々は海まで迫ってきている。海岸沿いを走っていてもいくつもの峠を越えなくてはならないのだ。でも起伏のある入り組んだ海岸線は美しく、素晴らしい景色がたくさん見れた。志摩の海岸線もリアス式海岸なので、自転車で走るには面倒なところだった。北海道の長いまっすぐの道がなつかしく思えた。

Pict0022相賀浦という南伊勢市の小さな集落の海岸でキャンプしたとき、ちょうどお盆の祭りの日だった。地元の中学生、高校生たちがワイワイ集まっていたところにキャンプしていたら、その子たちと自然に仲良くなれた。見た目ちょっとやんちゃな男の子もいたが、みんな純粋な感じで、男女がとても仲良くてさわやかだった。一緒に花火を見たりして、りお太郎にとって良い思い出になった。

地図を見ながら旅の計画を立てることは楽しいが、やっぱり行ってみないと分からないことが多い。旅は実際にやってみないと何があるか分からないものだ。まだ今回の旅だけでは、紀伊半島を少ししか知ることができなかったが、りお太郎なりにいろんな発見をしてきたと思う。

| | コメント (0)

2006年8月21日 (月)

ちゃりで旅をする

Dscn2755 旅をする手段として自転車を使い、人力で必死になって各地を巡っている人は意外と多い。夏の北海道なんかでよく見かけられるのが、いわゆるチャリダーと呼ばれる人種で、旅人の中でも特にマニアックで、かつマゾな連中だ。炎天下で汗だくになってペダルをまわし、車やトラックに遠慮しながら、排気ガスまみれになってノロノロと走っている姿には、感動するよりかは、可哀想に思う人の方が多いだろう。しかし、実は自転車に乗っている本人たちは、そんな時こそ最高の気分で、ちょっとハイになって鼻歌を歌っているものなのだ。

りお太郎が自転車で旅をしようと思いついたのが中学生の時。新潟市から東京までのおよそ300kmを3日間かけて旅したのが最初で(帰りは途中で挫折して、親に迎えて来てもらった)、それ以来懲りずに、毎年一回くらいは自転車で旅をしている。だから、りお太郎も間違いなくチャリダーという変わった人種のひとりなのである。りお太郎がちゃりんこの旅が好きなのは、ガソリンや交通費がかからないから経済的だということも、自転車が地球を汚さないエコな乗り物だからということも大いにあるのだが、自転車のスピードが旅をするスピードとして調度良いと思うからなのである。

新潟駅から東京駅までの移動は新幹線に乗っちゃえば、わずか2時間だ。雑誌なんか読んでいれば気がつくと関東平野にいる。ところが自転車ならば大違い!新潟市を出発し、広大な越後平野を走り、1日中必死にこいでも、湯沢までがやっとたどり着ける距離だ。そしてここからが大変で、新潟と群馬の県境の越後山脈を越えるために三国峠までひたすら登らなくてはならない。苗場のスキー場のあたりまで来るころにはボロボロになって挫折しそうになっている。なんとか持ちこたえて、群馬県に入れたら、今度はカーブが連続する超危険な激坂を車にビビリながら下らなくてはならない。そして、交通量の多い道をひたすら走るのだが、行けども行けども東京は近くならない。コンビニで休憩を入れたりすると、これが癖になって、コンビニがある度に休みたくなってしまう。自転車だと、なんと東京の遠いことか。新幹線で新潟から東京に行くのとでは、まったく距離感が違う。

高い切符代を払って新幹線に乗ってしまうと、途中にある山や川などの景色をいっぱい見逃してしまうが、タダ(無料)の自転車ならばいろんな景色を存分に堪能できる。2時間が3日になれば、その分、旅だからこそ味わえる感動も多くなるし、同じところに行くことの価値がまったく違ってくるのだ。旅人としては、スピードの速い乗り物で、ほとんど何も見ないで慌ただしく各地を移動することはしたくない。新潟~東京間は新幹線で1万円だけど、その同じ費用で3日間かけてちゃりで充実した旅ができる。もちろん泊まりは野宿になるけれど。

Dscn2760 自転車は降りたくなれば、いつでも降りることができる。きれいな景色があればどこでも、足を休めて止まれば良いのだ。車だったら、どこでも気軽には駐車するわけにいかないから、つい立ち寄るのは“道の駅”とかだけになってしまう。あと、ちゃりならば、歩いている人に声をかけられる。だから、あいさつもできるし、がんばっているね、と逆に応援されることなんかもある。旅先で知らない人とふれあう機会があれば旅の楽しさは倍増するものだ。ちゃりならば、そんなチャンスがめぐってくることも多い。

ちなみに、りお太郎はこの8月に紀伊半島を1週間かけて旅しました。また次回にそのちゃりんこの旅のことは紹介します。

| | コメント (0)

2006年7月10日 (月)

旅人ってカッコイイ?

些細なことで家族と喧嘩して、カバンひとつ持って勢いよく家を飛び出してしまう。“男はつらいよ”の寅さんに、なぜか小さい頃から憧れていました。田舎の駅で電車を待つ姿とか、見知らぬ土地で出会った人と意気投合するところなどがカッコイイなあと思っていました。

Im001964 小学校6年生の時だったと思うのですが、りお太郎もひとり旅を計画し、実行します。時刻表というとっても便利なものを発見したことで、日本中どこでも行けるようになった気がしていたことを憶えています。最初の旅では、山形の荒砥というフラワー鉄道という私鉄の終点の駅まで行き、名物のでっかいお地蔵様を見て帰ってきました。新潟駅発の急行べにばな(今は快速)に乗り、片道3~4時間くらいの行程ですが、小学生には十分すぎるほどの冒険であり、プチ寅さんになった気分だったはずです。

それからは“青春18きっぷ”を使っていろんなところまで行きましたが、楽しかったことよりもちょっと恥ずかしいカッコ悪い思い出ばかりあります。家出少年と思われておまわりさんに呼び止めれたり、雨の日、道を迷ったあげく暗くなり、道を歩いていた人に道を聞こうとかけよったら、怖がられて走って逃げられたことなんかありました。中学生くらいになると同じくらいの年齢の女の子が気になるようになり、電車の中ではまわりばかり気にしちゃって、ひとり旅の風情もなにもあったもんじゃなかった。

ローカル線はますます不便になっているし、電車の中ではみんな携帯電話ばかりやっていて、寅さんを気取って旅ができる雰囲気がどんどん少なくなっていると思います。りお太郎のこだわりは時代おくれと言われるし、今1歳の息子がもう少し大きくなってから、寅さんのロマンを熱く語ってやろうと思っているのですが、相手にされないかもしれないと今から心配しています。息子が中学校くらいになったら誕生日のプレゼントに青春18キップをあげようかなと考えています。それまであのきっぷは廃止にしないでほしいな。

| | コメント (0)

2006年6月27日 (火)

りお太郎の海外放浪その一 “オレゴン”

15歳の時、アメリカでの留学生活を始めたりお太郎にとって、オレゴン州は特別な場所です。

アメリカ西海岸には、ロスやサンフランシスコがあるカリフォルニア州や、シアトルがあるワシントン州がありますが、その間に挟まれているオレゴンはぐっと人口が少ないし、大きな町もなく、とにかくのんびりしている州だといえます。ひとことで言えばオレゴンはド田舎です。でも、山の上にポツンと立つ小さな全寮制の高校で学んでいたりお太郎にとって牧場や果物畑が広がるオレゴンの風景はなつかしくて、安心させられるものがあります。

14393さて、オレゴンへの日本からのアクセスは、州で最も大きな町ポートランドが玄関口になります。まだ15歳だったりお太郎が留学生活をスタートしたのもここからで、はじめてポートランド空港に降り立った時感じた不安は忘れることができません。外人からは威圧感を感じ、英語がまるで聞き取れないから、それは宇宙人と接しているのとなんら変わらなかったです。不安なことばかりだったけれど、アメリカに来たことをうれしく思えたのは、空港から見えたマウント・フッドという山がすごい美しく、アメリカの自然が日本とは比べられないほど壮大なことを実感でき、これからもっとすごい景色が見れるだろうという期待感を持てたことでした。

ぜひ日本からの旅人にオレゴンを訪れてもらいたいと思いますが、その前に絶対にチェックしておくべきものがあります。

●TVドラマ「オレゴンからの愛」 倉本聡監督、続編もあるけれどオススメは一番最初のドラマシリーズ

●映画「グーニーズ」 オレゴンの港町アストリアが舞台

●映画「ステンド・バイ・ミー」 内容もすばらしいけれど、オレゴンの田舎町風景が良い!

| | コメント (0)